中山 元さん(『純粋理性批判』などの翻訳者)による「ドイツの古典図書を古典新訳文庫で読む『自由の哲学者、カント』」の第1回講座が1月28日(金)に東京ドイツ文化センターで行われました。
当初予定していた人数を大幅に超え、会場を埋め尽くした参加者を目にして感動しました。と同時にみなさんに感謝の気持ちでいっぱいです。
昨年は「ハーバード白熱教室」人気もあって「正義」についてたくさん論じられましたが、今年は「自由」だ! そう確信しました(笑)。
初回はイントロダクションでしたが、内容が濃くてやや頭が酸素不足状態でした。
次回からはきっちりと予習をしてのぞみたいと思います。もちろん、復習もしないとダメなんですが......。
参加いただいたお二人の方から感想をいただきました。下記〈続きを読む〉をクリックしてください。内容の濃い当日の様子が伝わってきます。ありがとうございます。哲学者・中山元さんとの深い討論の場が、2回目、3回目といっそう極まっていく予感がします。
■中山元さん『自由の哲学者、カント』講座の開催概要はこちら(次回は、2月25日(金)です) >> ■ドイツ文化センター(東京)のオフィシャルブログにも当日の模様が>>都内の大学生(文学部哲学科在籍 男性)からは、
中山元さんのことは光文社の古典ライブラリー以前に、ちくま学芸文庫で刊行されているフロイトの『自我論集』や『エロス論集』など主にヨーロッパの重要な思想家や哲学者の著作を大学教授という立場ではないところで翻訳されている人として知っていました。
フーコーやデリダなど現代思想の重要人物の著作を多数、翻訳されている業績にこの方はどんな人なのだろうという興味をずっともっていました。
今回の連続講演(講義?)ではカントの思想を自由というテーマから照射していくことになっています。自由というテーマは決定論との関係で、思考することが困難でありながら現代を生きる私たちがそのことついて思考することがとても大切なテーマです。その意味でも今回の連続講演は非常にアクチュアルなテーマを扱っています。 プラトン、アリストテレスからアウグスティヌス、エピクテトス、パウロ、トマス・アクィナス、スピノザ、ライプニッツ、ルソーをへてカントにいたる人間の自由の条件をめぐる歴史的な議論は非常に哲学史的に学ぶことも多くとても勉強になりました。 私の興味では学校でエピクテトスのレポートを書かなくてはならず、エピクテトスは自分の圏内と圏外にあることを区別して、圏外にあることをそれが人為的な事態であれ自然的な事態であれ区別することなく必然や運命として受容し、人間の選択意志は自分の内面の要塞の中でそれだけで自由を獲得できるという、自由と必然が背中合わせになっている議論に興味を持ちました。「私の意志はゼウスも征服できない」という人間の本性的に自由を求める態度はある普遍的な真理をついているのではないかとおもいます。 ストア派関連でディオゲネス・ラエルティオスの欲望を制限する意志の力の話がありましたが、ストア派は人間の自由と必然の関係性を実践的に理解しようとした重要な思想家たちなのだとおもいました。ストア派はエピソードもそれだけで単純に面白いとおもいます。ストアにおける独特なユーモアにも関心を持ちました。 カントが「哲学を学ぶことはできない。学ぶことができるのはせいぜい理性が歴史的にどのように使用されてきたかを知ることだけだ」と述べていたといいますが、ドグマの真理そのものの真偽を問うのではなく、ドグマの系譜をたどることのほうが大事だという議論はとても面白いとおもいます。それ以前の時代では真理の真理性がどこに誰に宿るのかという真理そのものを目指すことが問題の中心にあったのが、カント以後では真理の歴史的な系譜学を跡付けることのほうが重要な問題を構成しているのだという発想はやはり現代に至るまでの大きな転換を示しているとおもいます。天動説から地動説への転換のような、ある種の絶対性を失った世界の中で私たちはその都度、自分の位置を確かめながらやっていくしかないという認識論的な転換はやはり画期的なものなのだとおもいます。 そのような認識の転換と自由の問題をこれからの講演の中で展開していくのだとおもうととても刺激的な議論になるのは間違いないとおもいます。無調性な世界の中で人間にとっての自由は選択意志とそれをおおきく包み込む必然性の原理のなかでどのように実現されるのかという疑問が僕のなかで今おおきくあるのですが、次回の講演まで自分なりに考えていきたいとおもいます。 真理を直接指し示すことよりも真理の歴史性の提示することのほうがより真理に対して根源的な態度でありうるという洞察は、今日の中山さんのそれ自体系譜学的な議論の展開によって後ろ立てられているようにもおもえました。あまり哲学史には興味がなくて、真理そのものを知りたくてたまらない知恵熱に駆られている人たちは今日の詳細な哲学史における自由と意志の歴史的で系譜的な議論はある意味退屈におもえてしまうのかもしれません。でもそのような性急な議論に、静かに中山さんは回答を提示してくださっていたのではないでしょうか。
ドイツ文化センターでドイツ語を受講されている、北京在住!の小林さんからは、
光文社の古典新訳文庫シリーズの刊行は、書評等でも好意的に取り上げられており、その存在は知っていた。
しかし、積極的に読もうと思うところまでは至っていなかった。
昨年9月の日本経済新聞の『私の履歴書』欄で木田元氏の話がでており、その哲学を学ぶに至る経緯、ドイツ語等語学学習のための大変な手法と努力、そして中央大学でのきびしい輪読会、著書の第一作、第二作を世に問うた頃の社会の動き、編集者とのつきあい等々の話に大変興味をひかれた。
というのもこのドイツ文化センターで自分もドイツ語を学習してきたからである。なかなか上達しないのではあるが、かれこれ10年以上やっている。
そんなおりドイツ文化センター吉次氏からのメーリングリストで今回の企画がある事を知らされ、また吉次氏自身もハイデガーとカントの関係で一文を書いておられ、非常に興味を持った。結果、ドイツ語学習の一つの目標として言語でハイデガーやカントを読めればいいなあ、と思ったことも、大それたことながら事実である。
中山元先生のお話は内容は難しいのだが、より平易に話をしてくださる「気持ち」が伝わってくるので、わかったような気になるところがいい。
自分も含めて「しろうとの質問」に正面から答えて頂けるのはありがたい。
講義後のワインをごちそうになった場でもいくつかの質問をした。
現代のドイツ人にもカントの文章は難しいものであることを聞いて安心したし、それを平易に説く本もドイツでは多く出ているとの事なので、まずはそれらが読めるようになる、という事を目標にして、明日から始まる東京ドイツ文化センターのドイツ語冬期集中講座で頑張りたいと思う。