新連載
〈あとがきのあとがき〉は翻訳者と原作との長く密やかな「対話」、そして読者との知的で軽やかな「対話」です。
第二回は、『ムッシュー・アンチピリンの宣言--ダダ宣言集』の翻訳者・塚原 史さん(早稲田大学教授)による「思考は口の中で生まれる----ダダ的生き方のすすめ」〈1〉 を。
出会い
僕は1967年に大学に入り'71年に卒業しています。大学紛争が日本中を席巻したいわゆる反逆の時代、あるいは全共闘世代のど真ん中ということになります。当時は大学自体が混乱を極めていて、まともに授業があったのは2年生くらいまででした。大学の垂直的な支配関係を横断的なコミュニケーションに変えたいと思い、政治学科でしたがマルクス『資本論』の読書サークルを作ったり、ひょんなことから自治会の委員に選ばれたりして、学生運動にも少しかかわっています。
ダダとの出会いは、まさにパリ五月革命の年、1968年です。大学入学前年の'66年は、トリスタン・ツァラが最初の宣言を出した1916年(『ムッシュー・アンチピリンの宣言--ダダ宣言集』/塚原史訳、光文社古典新訳文庫、2010年刊参照)から数えて50年目に当たっていました。「ダダ50年」ということで、ヨーロッパで巡回展覧会が企画され、'68年に日本に回ってきて、当時京橋にあった東京国立近代美術館で開催されたので見に行きました。昨年(2010年)亡くなった評論家の針生一郎さんが、その頃私の大学で「芸術論」の講師をされていて、ダダ展にかかわっていらしたのです。展覧会図録に書かれた「現代にとってダダとは何か」という文章に深い感銘を受けました。この図録には坂崎乙郎さんも協力していましたが、その授業にも出ていたので、展覧会を訪れた直接のきっかけはこちらのほうだったかもしれません。
原体験という言葉はあまり好きではありませんが、学生運動とダダ展という2つの出来事が時期的に重なって、僕の中に権威や制度への反逆というイメージが定着し、ダダイズムが身近になったということはあると思います。ツァラはルーマニア出身ですが、母語ではないフランス語で詩やテクストを書いた人なので、学び始めたフランス語でもスッと入っていけたということもあります。
ダダは誰のものか
権威や制度への反逆は、若い人の特権とはかぎりません。たとえば、『--東(ぼくとう)綺譚』などの風俗小説で知られる永井荷風は『断腸亭日乗』(岩波文庫・下巻など)で、64歳の年の元旦にこんなことを書いています。
その前年1941(昭和16)年の12月8日が真珠湾攻撃、つまり日米開戦の日ですから、当時の日本社会には、のんびり「おめでとう」などと言っている余裕がなかったのかもしれませんが、そうした個々人の判断ではなくて、荷風がいうように「法令」というか、何かの形の通達があったのでしょう。詳しい事情はよくわかりませんが、いずれにせよ、荷風が「人民の従順驚くべく悲しむべし」と慨嘆しているのは、戦時中に軍部に進んで協力した作家や画家が圧倒的多数派だったことを思えば、とても深い意味があります。一方で、野間翁のような人を評価している。野間五造は、明治時代に『琉球新報』(現在の同名紙とは別ですが)主筆を務め、後に衆議院議員になった人物のことだと思います。「旧習を改めず」はダダとは正反対ですが、反骨の姿勢に対する共感めいた思いはありますね。
ツァラが100年近く前にダダの運動を世界に発信したときは第一次大戦中で、社会は大混乱に陥っていたけれど、戦争遂行という至上命令のもとに、逆に制度による抑圧的な管理が強まっていました。思想的にも、伝統的で常識的な価値観の上にアイデンティティを組みたてようとする旧来の態度がまだ支配的だったわけで、そうした支配に対する反抗として、ヨーロッパでは、戦争前に未来派が登場し、戦中のダダに加えて戦後はシュルレアリスムが出てきます。もちろん、芸術運動に限らず、政治・経済や社会運動の領域でも、資本と労働、帝国主義と植民地などの深刻な矛盾を背景に、さまざまな反逆が起こります。歴史をごく大づかみにふりかえると、1917年にロシア革命が起こり、第一次大戦後はファシズムとナチズムがヨーロッパを蹂躙し、人民戦線やスペイン市民戦争、第二次大戦の対独レジスタンスなどを経て、二十世紀後半にはアルジェリア戦争、キューバ革命、ベトナム戦争、アメリカの市民権運動、さらには世界的な学生叛乱などにつながっていく。ダダ自体は、シュルレアリスムと違って政治的な関心は希薄でしたが、そんな歴史の流れの中で、若い世代が自分たちより年上の世代に対してもっていた反逆的なセンチメントやメンタリティが、社会秩序そのものへの反感と重なり、世代を超えて伝わっているのは確かでしょう。その意味では、ダダの反逆的精神も時代を超えて現在にいたっているわけです。
〈2〉に続く>>