産経新聞大阪版の夕刊文化欄で高遠弘美さん(『失われた時を求めて』『消え去ったアルベルチーヌ』の翻訳者)の連載が始まりました。タイトルは「プルーストと暮らす日々」。高遠弘美さんの生活がどのようにプルーストと結びついているのか、その日常が綴られます。毎週木曜日の掲載ですが、大阪版限定の連載のため、このブログに転載させていただくことになりました。ご期待ください! (※紙面での掲載から1週間後にブログへ転載いたします)
■「プルーストと暮らす日々 1」PDFファイル >>
第2回 2011年5月19日(木)掲載記事はこちらです。↓ ↓近日中に第3回もブログでご紹介します。
プルーストと暮らす日々 2
タイトルに惹かれて読み始める本がある。プルーストの『失われた時を求めて』などはその最たるもので、その適度な長さといい、どこか謎めいた雰囲気といい、一度目にしたら忘れられない書名と言えるだろう。人間誰しも次から次へと押し寄せる時間の波に流されて、右往左往せざるを得ない。時間は無意味に失われてゆくだけだ。そんなむなしさをかかえているからこそ、この題名は心にすっと入ってくる。若き私もそうだった。
父を小五で亡くし、兄が東京の大学に入ってからの数年、私は最愛の母親とふたりきりで暮らしていた。貧しいながらも、今からすれば至福の時だったかもしれない。その母が急死したのは高三の夏だった。朝の「行ってらっしゃい」という言葉が、母の最後の言葉だった。夕方帰ると倒れていて、そのまま死んだのだった。
翌春、大学に入った私は母親の死の悲しみから逃れるかのように、手当たり次第に本を読んだ。『失われた時を求めて』と出会うのは時間の問題だった。当時のフランス語の授業はいまほど実用的ではなく、かなり文学的で、私は翻訳を読む前に『失われた時を求めて』の原題を知ることになった。その響きが日本語題名と同じように、十八歳の私の心に届いたのである。
唯一出ていた六人による全訳は絶版だったから、やむなく大学図書館で借りて読み始めたが、つねに誰かがどこかの巻を借りていて、なかなか一気に読めない日々が続いた。大学三年になり仏文科に進んだ私の心を占めていたのはプルーストの全訳を買いたいという欲求だった。古本屋で全巻揃いで二万円近くする本など、両親のいない仕送りなしの勤労学生としてはとても手が出ない。思い悩んだ末に兄に相談したところ、買ってやると言う。金を受け取った足で古本屋に行った。一九七二年十一月十八日のことである。
まったくの偶然だが、その日は、プルーストが世を去ってちょうど五十年後の命日だった。以来、プルーストに導かれる日々が続いている。
また、月刊『ふらんす』(白水社)でも4月号から連載が始まっています。こちらは、「対訳で楽しむ『失われた時を求めて』 スワン家のほうへ」と題して、原文に訳、注をつけ、細やかに解説されています。