産経新聞大阪版の夕刊文化欄で連載された(2011年5月〜2012年8月)高遠弘美さん「プルーストと暮らす日々」の第3回と第4回です。
プルーストと暮らす日々 3
十七世紀オランダの画家フェルメール作『地理学者』がこの春から日本に来ている。今年はさらに『手紙を読む青衣の女』もやってくる。フェルメールは日本でも人気が高く、やはり『地理学者』も来た二〇〇〇年の大阪市立美術館はじめ、ここ数年はほぼ毎年のようにフェルメールを日本で見る機会に恵まれる。
全部で三十数点しか遺されていないフェルメール作品を二十三点展示した一九九六年のデルフト、十五点を集めた二〇〇一年のニューヨーク。そのいずれも私は行ったけれど、そもそもどうしてフェルメールを知り、フェルメールを見るためならどこへでも出かけるようになったのかと言えば、プルーストの導きというほかない。
フェルメールが日本に最初に来たのは一九六八年だったが、そのとき私はまだ画家の名前も知らない田舎の高校生だった。二度目に日本に来たのは一九七四年で、このときはすでにプルーストを通じてフェルメールを知っていたから何度か通ってその魅力に開眼することになった。
『失われた時を求めて』第一巻から登場する人物に、シャルル・スワンという男がいる。語り手の一家の友人であると同時に、社交界の寵児でもある。文学と芸術に造詣があり、当時はまだそれほど知られていなかったフェルメールをいち早く評価してその研究をしたいと思っているが、世事に忙殺されて本腰を入れることができない。しかしスワンは、一八七六年、オランダのさる美術館が購入したニコラス・マースの作品がじつはフェルメールの真作だと信じていた、と小説では書かれている。
読者のうちでスワンという人物が親しく感じられるようになればなるほど、フェルメールに対する読者の関心は大きくなってゆく。しかも、スワンだけがフェルメール称揚の役を担っているわけではなかった。もうひとり、語り手に影響を与える大小説家ベルゴットもフェルメールと格別に深い関わりを持った存在として作品中に登場する。それについては次回に。
(2011年5月26日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)
プルーストと暮らす日々 4
『失われた時を求めて』には、「偉大な」と形容される架空の芸術家が登場する。その一人、大作家のベルゴットは医師から安静を命じられていたが、ちょうどパリで開催中の美術展に、前々から大好きだったフェルメール『デルフトの眺望』が来ているというので、病をおして出かけてゆく(第五篇「囚われの女」)。
『デルフトの眺望』は画面の半分以上が空と雲で、その下に町のいくつもの建物、接岸している船、川、手前の岸とそこに配された数名の人物などが描かれた風景画で、プルーストが「世界でもっとも美しい絵」と書きつけている傑作である。
ベルゴットは最近の自作と比べて、この絵がどれほど潤いに満ち、細部までみごとに仕上げられているかを痛感し、苦い自省の念におそわれる。彼は「庇のついた黄色の小さな壁面、黄色の小さな壁面」と繰り返しながら意識を失って死ぬ。
「ベルゴットの通夜の際、明かりのともされた本屋のショーウィンドウでは、その著書が三冊ずつ、あたかも翼を広げた天使たちのごとく並べられて故人を弔っていたが、それはいまは亡き人のためにもたらされた復活の象徴のように思われた」
プルーストにのめり込んだ一人として、こんなふうに書かれた『デルフトの眺望』を実際に見ないわけにはいかなくて、オランダへ行ったのはちょうど三十歳を迎えた春のことだった。
残り少ない旅費をはたいてパリから電車でデン・ハーグに辿り着いた私はすぐさま美術館に駆けつけた。入り口に小さな掲示が出ている。不安が胸をよぎる。そこには、「修復のため一時閉館」と書かれていた。のちにわかったのだが、この閉館は一年以上続いたらしい。
だが、待てば海路の日和あり。一九九六年、デン・ハーグで開催されたフェルメール展に、日本から出かけていった私は、ようやく『デルフトの眺望』の前に立つことができた。「一時的閉館」から十四年の歳月が経っていた。
(2011年6月2日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)