産経新聞大阪版の夕刊文化欄で連載された(2011年5月〜2012年8月)高遠弘美さん「プルーストと暮らす日々」の第7回です。
プルーストと暮らす日々 7
第一巻で挫折する人が少なくないと言われる『失われた時を求めて』だが、私は初めて読んだときからその世界の魅力にとらわれた。その理由の一つに、母親に対する「私」の異常なまでの執着があるかもしれない。
亡母は明治四十三(一九一〇)年、福岡県折尾(現北九州市)に生まれた。当時は珍しくない没落した旧家の出で、少女時代は有為転変を味わったらしい。信州出身の、やはり明治生まれの父とどこで出会い、結婚したのか、いや、結婚後にどういう生活をしていたかもよくわからない。
その代わり、折尾での少女時代の話はいくつかしてくれて、いわゆるモガ(モダンガール)張りの洋装をした母が、「花咲く乙女」さながらに、着物姿の娘たちと撮った写真が残っている。琴や和歌もたしなむ本好きの少女だったらしい。女学校を出たころには家運は相当傾いていたようで、母は裁縫を習わされたという。
私が小学校の時に世を去った父は世渡りが下手で、郷里の信州に疎開してからは何もかもうまく行かず、貧乏暮らしをしていた。母の小さな小箱には、つましい家には不釣り合いとも言える、戦前の泉鏡花全集の端本や、ゾラの『ナナ』やスーヴェストル『屋根裏の哲人』その他が入っていた。
父はまったく書物と縁のない人だったから、これは母が娘時代から愛読していた本に相違ない。ことに日本文学とフランス文学が好きだった母は、プルーストを知っていたのか。それが最近妙に気にかかってならない。
というのも、たとえば改造社の「文藝」のような文芸誌もその小箱にあったような気がするからである。
母が二十代の娘のときにそうした雑誌でプルーストの名前を知ったことは大いにありうる。とすれば、本屋の店頭で、戦前に刊行されたプルーストの翻訳を一冊くらい、買わないまでも手にとっていた可能性はゼロではないだろう。
泉下の母は、母に甘えてばかりだった私がいまプルーストを訳しているのをどう思っているだろうか。
(2011年6月23日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)