産経新聞大阪版の夕刊文化欄で連載された(2011年5月〜2012年8月)高遠弘美さん「プルーストと暮らす日々」の第10回です。
プルーストと暮らす日々 10
今では小説は虚構であり、小説に登場する地名をいちいち現実の土地と結びつけるのは邪道だと思っているけれど、若い頃は架空の地名のモデルと言われる土地には一度は行ったものだった。語り手の幼年期の重要な舞台コンブレーの主要なモデルと言われるイリエには二回行ったし、「花咲く乙女たち」と出会う海辺のリゾート地、バルベックのモデルの一つと言われるノルマンディーのカブールにも行った。三十年近く昔の話である。
カブールのグランド・ホテルは一九〇七年以降一四年まで、プルーストが毎年夏を過ごしたホテルで、作品中に描かれるバルベックのグランド・ホテルの主要なモデルとされている。
夏のハイシーズンはまず部屋が取れないし、とれても目玉が飛び出るくらい高いから、行ったのは三月だったと思う。幸い、海の見える部屋を用意してくれたので、部屋に入ってから夜に食事に出るまで、ずっと窓辺に座って海を眺めていた。部屋にはプルーストがバルベックのホテルについて書いた「澄んだ、紺碧の、塩辛い空気」が一杯に漂う。窓の外には水平線と海と空だけが見える。船影すら見えない。永遠に変わらないようでいて、刻々と変化し続ける海と空。時季は違えど、これこそプルーストが描いた光景だと実感した。
夜になって一階のレストランを覗いてみたが、ひどく高い。やむなくホテル近くの安食堂に入った。
席についてまわりを見ると、隅の席に座った男女の前に置かれたムール貝が目にとまった。三十センチはあろうかという高さまで山盛りになったムール貝を、若い女は口にしようともせず切々と男のつれなさを嘆いている。中年の男は黙々とムール貝を口に運ぶ。女は訴え続け、男は黙って食べては殻をもうひとつの皿に積み上げてゆく。やがて貝殻だけの山ができあがった。三十分は経っていただろうか。皿から皿へと移動した貝殻だけが聞いていた別れ話。
プルーストならどう書いただろうとそのとき私は思った。
(2011年7月14日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)