産経新聞大阪版の夕刊文化欄で連載された(2011年5月〜2012年8月)高遠弘美さん「プルーストと暮らす日々」の「第11回です。
プルーストと暮らす日々 11
萩原朔太郎の詩「旅上」冒頭「ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し」を教えてくれたのは亡母である。大正末期に出た詩集に載ったこの詩を母はどんな思いで覚えていたのか。しかし、この一節は長い間ほとんどの日本人に共通する思いを歌ったものでもあった。
現に、仏文科の大学生から大学院生だった一九七〇年代の私にも、この詩は文字通りの現実を歌ったものとして響いたのである。毎日、辞書を片手にフランス語を読んでいたのに、いつか自分が彼の地を踏む日が来ようとは夢にも思わなかった。当時、フランスへゆくことができたのは限られた人々だった。少なくとも親のいない私にはフランスはいつまでも「あまりに遠い」国でしかなかった。
修士課程一年の終わりの頃だったから一九七五年の早春だったが、高校は別だったのでしばらく行き違っていた中学校時代の親友と久しぶりに会うことになった。一年遅れて大学を卒業することになった友人は卒業記念にヨーロッパ旅行をしてくる、ついては何かほしいものがあったら買ってきてやると言う。
今から思うと図々しくて赤面するばかりなのだが、修士課程から本腰を入れてプルースト研究に励もうと思った私は、どうしてもほしかった本、プルーストが翻訳した批評家、ジョン・ラスキンの二冊の書名をメモ用紙に書いてフランス語を知らない友人に渡したのだ。
旅行から無事に戻った友人は、私の目の前に二冊のうちの一冊『アミアンの聖書』(一九四七年版)を置いて申し訳なさそうに言った、「本屋を見つけるたびに、君のメモを店の人に見せて歩いたのだけれど、一冊しか手に入らなかった」。
私は涙を止めることができなかった。中学時代の親友は、もう二度と行けないかもしれないヨーロッパ旅行の最中に、私を喜ばせるため、あるいは私の研究のために、目についた本屋という本屋を訪ねて探し回ってくれたのである。
当然のことではあるけれど、プルーストに向かうとき、彼の稀有な友情を忘れたことは一度もない。
(2011年7月21日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)