産経新聞大阪版の夕刊文化欄で連載された(2011年5月〜2012年8月)高遠弘美さん「プルーストと暮らす日々」の第12回です。
プルーストと暮らす日々 12
数日前から、右目が兎のように真っ赤になっている。眼医者に行くと、結膜下出血で、放っていても治る、大したことはないと診断された。医者は「日柄もの」と言ったが、これはどこかの地方語ではないかと思う。日柄は辞書に「一定の期間」とあるから、それなりの日数が経てば治る、焦らず養生をしなさいということだろう。なかなか味のある表現ではなかろうか。
この言葉を聞いて私は『失われた時を求めて』に出てくるコタール医師のことを思い出した。
コタールは、ヴェルデュラン夫人の主宰するサロンの常連で、著名な臨床医であるが、無趣味な俗物として描かれる。ただ、憎めない人物で、「田舎から出てくるときに、先見の明のある母親から言われたとおりに、自分がそれまで知らなかった慣用句や固有名詞があると、かならずそれらについてきちんと調べようとする」などというあたりは、母親の遺訓をいつまでも守ろうとする我が身にも通じる話で、何だか身につまされるような気がする。
たとえば「悪魔の美貌」。これは、まだ本当の魅力が備わっていないのに若さゆえに発せられる美しさをいうのだが、こういう言葉を聞くとコタールは、意味を調べて、すぐにでも使いたくなる。私も子供の頃から新しい表現を知ると、会話でも文章でも使いたくてじりじりしていたから、この気持ちはよくわかる。私もすでに「日柄もの」を使ってみたくて仕方がない。
私がコタールに親近感を抱くのにはもうひとつ理由がある。コタールはしばしば相手の言葉を鵜呑みにするのだ。それも、「わたしたち、謙遜して、先生に差し上げるものの価値をわざわざ貶めて話すけれど、どうやら判断を誤ったようね。実際の生活とは無縁のところで暮らしている学者さんだから、自分では物の価値がわからないのよ」とヴェルデュラン夫人に陰口をたたかれるほどに。
私にもそういうところがある。見透かされているようで何だか悔しいけれど、プルーストの人物が身近に感じられる瞬間である。
(2011年7月28日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)