産経新聞大阪版の夕刊文化欄で連載された(2011年5月〜2012年8月)高遠弘美さん「プルーストと暮らす日々」の第15回です。
プルーストと暮らす日々 15
子供のころは別として、長じてからは雨の中に飛び出して駆け回りたいなどと思うことはたえてなかった。それが先日、いきなりそうした衝動に駆られた。
信州の安曇野が好きで、ここ何年かはよく出かける。いつのまにか気に入った店ができた。食卓からはよく刈り込まれた芝生の広い庭を起点にして、そこから流れ出るように広がる安曇野の田園風景が、彼方の安曇富士を借景にして、大きなガラス戸から一望できる。夏の暑い夕方でもエアコンはなく、庭から吹き込む爽やかな風を受けながら、ワイングラスを傾けているうちに時が経ってゆく。
先だって、その店で食事をしていると、みるみるうちに空が暗くなり、山の向こうにはほの明るい空が見えるのに、大粒の雨が降り出した。夏の驟雨というより、夏の嵐。広くベランダをとってあるので、雨が入ってくることはなく、ただ秋の風かと思うほど涼しい風が顔に吹いてきた。雨は依然として激しく軒先を打っている。
そのとき、私はゆくりなくも『失われた時を求めて』の「スワン家のほうへ」に出てくる祖母の描写を思い出し、テーブルを立って、雨の中に走って行きたくてたまらなくなった。
「たとえ雨が激しく降ろうと、(略)にわかに降り出した雨が打ちつける誰もいない庭で、祖母は乱れた灰色の髪の房をかきあげ、健康によい風と雨を額いっぱいに浴びて、こう言うのだった。『ああ、これで息ができるわ』」
祖母は折角田舎にいるときに家の中に閉じこもるのは不健康だと考えているのだ。
あるいは、語り手のこんな言葉もある。
「夏には悪天候など、束の間の、表面的な気まぐれに過ぎない。夏の好天は、不安定で流動的な冬の晴天とは大違いで、目に見えなくても不変であり、大地にしっかりと根を下ろし、生い茂る葉叢のうちに固まっている」
私が思わず雨に打たれたいと考えたのはこの種の生命的衝動に突き動かされたからだった。庭に出て行かなかったことを私はいま、ちょっぴり悔やんでいる。
(2011年8月18日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)