産経新聞大阪版の夕刊文化欄で連載された(2011年5月〜2012年8月)高遠弘美さん「プルーストと暮らす日々」の第16回です。
プルーストと暮らす日々 16
何年かかっても手に入れたいと思う本がある。以前であれば、古本屋の棚か目録で探すしかなかったのだが、最近ではインターネットの古書サイトというものがあって、これは稀覯本入手の機会を飛躍的に高めたと思う。それでも、どんなものでもつねに手に入るとは限らないし、こちらの懐具合もあるから、やはり千載一遇のチャンスであることには違いがない。
最近、そうして数十年来探していた本がカナダのインターネットサイトを通じて手に入った。プルーストの処女作『愉しみと日々』初版である。
『愉しみと日々』は一八九六年六月、千五百部、著者負担で刊行された(五十部は特別な紙を用いた番号入り限定版)。序文は当時の大作家、アナトール・フランス。挿絵九枚や多数のカットを、芸術家の集うサロンの主宰者でもあった画家のマドレーヌ・ルメールが描き、プルーストの詩に、今なお近代フランス歌曲の中心的作曲家の一人に数えられるレーナルド・アーンが曲をつけたその楽譜が四曲分十三ページにわたって載っている。縦三十センチ横二十二センチという大判で、版元は有名出版社カルマン・レヴィ社。当時でも豪華本として発売された。
ガリマール社から「普及版」が出たのはプルーストが死んで二年後の一九二四年だから、『失われた時を求めて』の最初期の読者はほとんど知らなかった作品集である。
だが、この処女作には『失われた時を求めて』に繋がってゆく美質があまた見られる。社交界に出入りする裕福な文学青年が金にあかして出しただけの本ではない。単行本として日本初のプルースト訳となった堀田周一訳『プルウスト随筆』(一九三〇)の一部も、初めてプルーストを訳した重徳泗水に次ぐ雑誌掲載となった神西清訳の断章も『愉しみと日々』の一部だった。戦前だけで五種類の全訳や抄訳が出ているほど、我が国では早くから評価が高い秀作である。
私としては今までで一番高い本だったけれど、日夜眺めて当時のプルーストの心情に思いを馳せている。
(2011年8月25日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)