産経新聞大阪版の夕刊文化欄で連載された(2011年5月〜2012年8月)高遠弘美さん「プルーストと暮らす日々」の第17回です。
プルーストと暮らす日々 17
『失われた時を求めて』にはさまざまな引用が鏤められている。批評家だった故・宮川淳の名著に倣って言えば、豊饒なる「引用の織物」と言えるだろう。処女作『愉しみと日々』、未完の習作『ジャン・サントゥイユ』と『失われた時を求めて』を隔てているのは、言及や暗示等も含む広義の「引用」の圧倒的な多さである。
私の修士論文のテーマはまさに「引用」だったが、いまこれ以上の文学論には踏み込まない。私はただプルーストの引用の特徴に触れておきたいだけだ。
たとえば「スワン家のほうへ」第三部のヴェネツィアに関する記述で何度も引用される英国の批評家ジョン・ラスキン著『ヴェネツィアの石』を例にとってみよう。一重括弧がプルーストの本文で、二重括弧内がラスキンからの引用である。
「いまや私は自分が紛れもなく『インドの海に見え隠れする岩礁にも似た紫水晶の岩』の間に入り込むのを感じた」
フランス語で一行足らずの二重括弧内の部分がラスキンの原文の仏訳では五行以上あり、しかも、肝心要のところを直訳すると「インドの海の二つの珊瑚色の岩々の間」となる。
プルーストの引用はほとんどすべてが記憶だけでなされている。他の作家や詩人を引用するときもそう。すべてがいったん記憶の抽斗に納められ、それを随意に取り出してきては引用の織物を紡ぎ出してゆくのがプルーストの方法である。
自分が読んで心に響いたものを記憶する。これが第一段階。それが時間の作用を受けるなかで、陶磁器が窯変して思いもかけぬ釉色となるように美しく改変してゆき、本質的な部分が多彩なきらめきとともに残る。これが第二段階だとすれば、あとは作品の展開に応じて、プルーストが自在に取り出して編んでゆくだけになる。
引用とは言葉を換えれば二つの世界の響き合いである。引用が正確でないなどと目くじらを立てるには及ばない。引用そのものの変幻ぶりを楽しむこともプルーストを読む時間の充実に繋がっているのだから。
(2011年9月1日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)