産経新聞大阪版の夕刊文化欄で連載された(2011年5月〜2012年8月)高遠弘美さん「プルーストと暮らす日々」の第20回です。
プルーストと暮らす日々 20
「もうすぐ僕らは沈むだろう、冷たき闇の奥底に/お別れだ、短すぎた僕らの夏の強き光よ」
フランスの詩人ボードレールの有名な「秋の歌」はこう始まる。
秋を嫌うフランス人は意外に多い。どんよりと曇った空の下、日に日に寒くなり、雨がちな暗い日々が続くからである。爽やかな日本の秋とは違うのだ。
それだけに、過ぎゆく夏の時間に織り込まれたさまざまな経験が貴重になる。日常の些細な事柄を含めて、夏の日々を愛する文学者が少なくないのも頷けるだろう。秋を特に厭わしく思うわけではないプルーストも、五官を全開にして夏の日の何気ない日常を記憶に留める。その記憶は、予想もしなかった音の記憶と重ねられて、私たちの心にたとえばこんなふうに届く。
「光の感覚は、私の前で小さなコンサートを開いて、夏の室内楽のような曲を奏でる蠅によっても引き起こされる。人間の音楽でも、春から秋のすてきな季節に偶然耳にして、以後も折に触れて思い出す場合があるけれど、蠅の奏でる音楽は、それとは違い、夏と必然的に結ばれて、晴れた日々から生まれ、そうした日々だけを道連れに蘇る。蠅の音楽には晴れた日々のエッセンスがいくらか混じっている。それは私たちの記憶のなかにひそむ夏の美しい日々のイメージを喚起するだけではなくて、それらの日々が立ち返り、目の前に現れ、あたり一面に広がって、私たちがいつでもその中に入れるようになったことを保証している」(『失われた時を求めて』第一篇「スワン家のほうへ」第一部「コンブレー」)。
日本では嫌われ者と言っていい蠅を、プルーストは何と「晴れた日々のエッセンス」を想起させる音楽を奏でる存在と捉えたのである。
記憶のなかの夏の蠅の羽音はどこかやるせなくて、去りゆく夏を静かに愛惜するにはいっそふさわしいかもしれない。
蠅の羽音まで記憶に留めようという根柢には、失われゆく時間を失われたままにしないという強い決意がある。プルーストに励まされる瞬間である。
(2011年9月22日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)