産経新聞(大阪版)の夕刊文化欄で連載中(毎週木曜日掲載)の高遠弘美さん(『失われた時を求めて』『消え去ったアルベルチーヌ』の翻訳者)「プルーストと暮らす日々」の第22回をお届けします。
プルーストと暮らす日々 22
今頃のパリで愉しいことのひとつは芝居見物だろうか。いわゆる「演劇シーズン」は学校の新学期にあたる九月や十月に始まり五月か六月に終わる。夏は演劇祭以外は休演期間である。
芝居もいいが、観劇の後に、冷たい生牡蠣や熱々の玉葱のスープに舌鼓を打ちながら、見たばかりの芝居の話に興ずるのは人生の大きな喜びに数えられる。
プルーストの時代の「シーズン」の開始は復活祭(三月か四月)のあと。夏の休演をはさんで、翌春の二月か三月頃に終わるのが一般的だったが、観劇がフランス人の生活で果たしていた役割は、映画もテレビもない時代であればなおさら大きいものだった。
『失われた時を求めて』の語り手も子供の頃から芝居をこよなく愛していて、街中の広告塔に芝居のポスターを見に行ったりするのだが、病気がちのために実際に劇場に行くことは禁じられている。最初は友達から聞いた評価に従って、語り手は俳優の序列を頭の中に作り上げ、そういう中で、ラ・ベルマという(架空の)女優の舞台を見たいと思いつめるようになる。尊敬する小説家のベルゴットも家族の友人のスワンもラ・ベルマを称賛しているのに、なかなか見る機会が訪れない。ようやくラシーヌ作『フェードル』を演ずるラ・ベルマの舞台に接したのは第二篇「花咲く乙女たちのかげに」に至ってからだった。ところが夢にまで見たその芝居に語り手は幻滅を覚える。どこにどう美を見いだしたらいいのか迷うところがあったからである。
第三篇「ゲルマントのほう」で彼は再びラ・ベルマを見にゆく。このとき語り手は初めてラ・ベルマの偉大な才能に開眼する。このあたり十数ページわたってなされている描写と分析はすぐれた芸術家の秘密を余すところなく解き明かす。芸術作品を演じる俳優や音楽家は完全に透明な存在になって、観客からすると「傑作に向けて開かれた窓」そのものと化すのだ。それからしてもこの小説がすぐれた芸術批評の面を色濃く持っていることがわかるだろう。これもまたプルーストの魅力である。
(2011年10月6日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)