2011.11.03

高遠弘美さん–産経新聞夕刊(大阪版)連載 第25回「プルーストと暮らす日々」

産経新聞(大阪版)の夕刊文化欄で連載中(毎週木曜日掲載)の高遠弘美さん(『失われた時を求めて』『消え去ったアルベルチーヌ』の翻訳者)「プルーストと暮らす日々」の第25回をお届けします。

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プルーストと暮らす日々 25

フランスでは十一月一日はすべての聖人を記念する日で「万聖節」と呼ばれる祝日である。翌二日の「死者の記念日」が祭日ではないので、一日に合わせて先祖の墓参りをする習慣がある。日本のお盆かお彼岸のようなものだろうか。

両親が早く世を去ったせいか日本でもフランスでも墓地にはよく行った。東京の雑司ヶ谷墓地や谷中墓地、それにプルーストの墓のあるパリのペール・ラシェーズ墓地などは大体の地図が頭に入っているかもしれない。

プルーストの墓には万聖節に限らず献花が絶えたことはなく、いつ訪れても先に来た誰かの心づくしの花がそっと飾られている。

十七歳という多感な時期に他界した母とは違って、子どもの頃に死んだ父に対して、私はさほど近しい感じを抱いて来なかったのだが、さすがに来年に還暦を控えた年齢に達すると、父母双方から受け継いだものをどこかでいつも意識するようになった。それのみならず、母方の叔母夫婦をはじめ、すでに鬼籍に入った人々のこともよく思い出す。それと相通じる感情をプルーストは『失われた時を求めて』第五篇「囚われの女」で以下のように書いている。抄訳してみる。

「ある時期を過ぎると、私たちのまわりには、はるか彼方からすべての肉親が集まってくるのだが、私たちはそれを引き受けなくてはならないのだ」

こうした個を越えた時間的広がりや過去の人々との結びつきに対する眼差しは、他人に対しても向けられる。第二篇「花咲く乙女たちのかげに」にはこんな一節がある。

「これら若き娘たちの特徴はひとり彼女たちだけのものではなくその肉親に属するものでもあるだろう。個人というのは、自らを越えたもっと一般的な何かの洗礼を浴びるからである」

一回限りの自分の生がまったく他人と孤絶したものではなく、どこかで両親や肉親の存在と繋がっているという感覚。それを近頃は身にしみて感じるようになった。今度の万聖節には両親をはじめ、親しかった人々を静かに偲ぶつもりである。
(2011年10月27日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)

line_lace05.gif cover110.jpg 失われた時を求めて 1 <全14巻> 第一篇 「スワン家のほうへ I」
プルースト/高遠弘美 訳 定価(本体952円+税)