産経新聞(大阪版)の夕刊文化欄で連載中(毎週木曜日掲載)の高遠弘美さん(『失われた時を求めて』『消え去ったアルベルチーヌ』の翻訳者)「プルーストと暮らす日々」の第29回をお届けします。
プルーストと暮らす日々 29
今日十二月一日はフランスでは七世紀に活躍した聖エロワの祝日である。聖エロワはフランク王ダゴベール一世に仕える金細工師にして財務官だったが、王の死後司教となり、多くのゲルマン人を改宗させた。鍛冶職人や啼鉄工、金銀細工師の守護聖人であるとともに、南仏では農業全般を守護する聖人とされる。ブルゴーニュをはじめ各地で親しまれ、俗謡にも歌われた。プルーストにもなじみの深い名前だったようで、『失われた時を求めて』の第一篇「スワン家のほうへ」と第二篇「花咲く乙女たちの蔭に」で計三箇所引かれている。
まずは、語り手が休暇を過ごす架空の田舎町コンブレーの古い教会の秘宝に関するくだり。その教会所蔵の品々のひとつ、金の十字架が、語り手にすれば「伝説的人物」というほかない「聖エロワの手によって作られ、ダゴベール一世が教会に奉納したと言われている」ものだった。
残りの二つはこのエロワに繋がる名前をもった人物が登場する場面だ。それは子供の頃から奉公していた主人が世を去ると、教会の脇に部屋を借りて、一日中ベッドから離れないレオニ叔母(語り手の親戚)のような病人の見舞いをしたりして暮らしているウーラリという老女である。生きている間だけではなく、死んだあとでも聖エロワの名前とともに言及されるこの老女の名前とエロワとは、性が違うだけでもともと同一なのだ。
レオニ叔母の一番の楽しみはウーラリと世間話をすることである。毎日、レオニがあまりにウーラリを頼りにし、小遣いまで渡すので、女中のフランソワーズは気が気でない。一方、ウーラリもフランソワーズの忠誠を疑い、あることないことを告げ口する始末だ。
挙げ句の果てにレオニ叔母自身、フランソワーズにウーラリの不誠実を訴えたかと思うと、ウーラリにフランソワーズの正直さを疑う発言をするようにもなる。互いが疑心暗鬼になる人間関係の矛盾と堂々めぐり。
今の世でもありそうな人間同士の葛藤を辛辣にかつユーモラスに描き出す。これもまたプルーストである。
(2011年12月1日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)