産経新聞(大阪版)の夕刊文化欄で連載中(毎週木曜日掲載)の高遠弘美さん(『失われた時を求めて』『消え去ったアルベルチーヌ』の翻訳者)「プルーストと暮らす日々」の第30回をお届けします。
プルーストと暮らす日々 30
今日、十二月八日、拙訳『失われた時を求めて』第二巻「スワン家のほうへⅡ」(光文社古典新訳文庫)が店頭に並んだ。第一巻刊行から一年三ヶ月も経ってしまった。我ながら予想外の遅れというほかない。
今年は東日本大震災の年として長く記憶されるだろう。大地震と大津波。未曽有の大規模な原発事故。連載の第一回目にも記したけれど、この私にしても、大震災に命を奪われた人々、いまも生存を脅かされている人々のことを思って、自らが繰り出す言葉の無力にどれだけ苛まれたことか。
しかし、勤務先の大学の特別講義でお招きした詩人の佐々木幹郎さんの言葉によって私は根底から励ましを受け、鼓舞された。佐々木さんは震災後に言葉を使って表現することの意味を深く問い続けている文学者である。
カナダの監督が作った人形浄瑠璃・文楽の映画を通じて、佐々木さんは日本語や日本の伝統文化が持つ力によって救われ、言葉とは何かを考え直したという。私も文楽の太夫、人間国宝の七世竹本住大夫師の藝に感動し、全国どこの公演にでも駆けつける一人であるが、佐々木さんの言葉を通じて改めて、住大夫師の義太夫の言葉が私たちに訴えかける力に気がついたと言ってもよい。住大夫師は日本語が持つ美しさと優しさと暖かさと深さ、すなわち言葉のもつ力そのものを、公演のたびに私たちに伝えて下さっているのだ。
遅れていた第二巻の翻訳が一気に進んだのは、そのことに気がついてからである。一翻訳者にすぎない私にできること、というより、私がしなくてはならないのは、日本語の伝統と力を信じて、住大夫師の浄瑠璃とどこかで地続きであることを感じながら、微力を振り絞ってプルーストの世界を精緻で力強い日本語に移し替えてゆくということしかないと腹をくくったと言えばいいだろうか。
大仰な言い方かもしれないが、プルーストを個人で訳すにはそれだけの覚悟がいる。あと十二冊訳さなくてはならない。日暮れて道遠しの嘆きにならぬよう、一歩一歩ではあるが、先を急ぐつもりである。
(2011年12月8日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)