2011年12月16日。東京・赤坂のドイツ文化センターの図書館で、連続講演会「トーマス・マンのイローニシュ(アイロニカル)な立場」の第三回が開催されました。
今回のタイトルは、「トーマス・マンのイロニーという視線」。お話をするのは『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』を訳した岸美光さんです。
岸さんは、まず「イロニーの言葉とは、どんな言葉なのか」というところから話しはじめました。
それは、「肯定」と「否定」の間を漂い続ける言葉なのだと定義します。そのため、人が決断しようとする時には役立つものではないが、新しい方向性を見出そうとする際は、そのきっかけをつくる可能性のあるものだといいます。
そして四本のテクストを読みながら、トーマス・マンがイロニーに対してどう考えたのかを見ていく作業が始まります。
一本目は、1915年にマンが発表した「非政治的人間の考察」というエッセイ。ここでマンは、作家とは「人間たちや事物たちに語らせることを習慣としている人間」のことであると書いています。と同時にそういった作家をどこか批判的な形で扱っています。
次に岸さんが紹介するのは、あのフランスの大作家バルザックのテクストでした。ここでバルザックは、自分が小説を書くためにある対象を観察すれば、すぐさまその対象になりきることができると書いています。つまり作家であることの全面肯定がここにはあります。
このテクストと対比させると、前者のテクストを書いたマンのあり方がよく見えてきます。バルザックを代表とする写実主義を踏襲しつつも、その立ち位置に対する明確な反省があることがわかります。肯定と否定の間にいる人間。それを言葉にすることによって作家になっていったのがマンだったのです。
三本目のテクストは、マンの小説『ワイマールのロッテ』からの引用文でした。登場人物がゲーテをモデルにした人物について語ります。要約するなら、圧倒的な肯定と否定が集まったものがゲーテの視線なのだということ。だからこそ、ゲーテという作家の本質は「明らかにすべてを包括するアイロニー」なのだといいます。
最後のテクストは、1940年アメリカで行った講演会の発言でした。そこでマンは、芸術の根本にある一切の否定に通ずる一切の肯定という、イロニーの構図について語っています。
このように、マンにとってイロニーは、精神の根本にあるものでした。その作家がつくりあげた人物クルルは、イロニーの精神を肉化したものなのです。
クルルは詐欺師として、ある者を真似、その形になると、そこから身をひきはがし、また次にある者の形になっては、それを止めていくという行為を繰り返します。クルルは、あらゆるものになれるユニバーサルな存在です。それは肯定と否定の間に永遠に漂っているともいえます。
しかし、そのクルルが主人公の小説の執筆をマンは一時中断します。第二次世界大戦中のことでした。当時マンは、今は、人に語らせるということをしていた作家である自分が、あえて自分で語らなければいけない時期なのだと語ったといいます。
アイロニカルな立場にいることを止め、その時局に対して決断し行動しなければいけないのだと考えたのです。それはマンがデモクラシーの危機を感じた時代のことでした。
講演会の第一回目、岸さんは『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』はマンにとって「一種の遊園地」であったと語りました。イロニーの精神をもった作家が「遊べる」小説でした。しかし、マンは決断の言葉を語りだすため、この小説を中断したのだと、岸さんは語り、三回に渡る連続講演を終えたのでした。[文 : 渡邉裕之・文筆家]
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