産経新聞(大阪版)の夕刊文化欄で連載中(毎週木曜日掲載)の高遠弘美さん(『失われた時を求めて』『消え去ったアルベルチーヌ』の翻訳者)「プルーストと暮らす日々」の第38回をお届けします。
プルーストと暮らす日々 38
信州・安曇野の風景が好きで、かつては冬でもよく行っていたのだが最近は冬場に弱い車に変えたせいもあって凍結した雪道が恐くてつい億劫になる。しかし、肌を刺す冷気と見渡す限りの雪化粧の魅力は忘れられなくて、今頃の季節になると、安曇野の早春を歌ったとされる「春は名のみの風の寒さや」で始まる唱歌「早春賦」を口ずさむことが多い。
暖かい春だけではなくて、このような厳しい冬の風景にも惹かれるのは私だけだろうか。
たとえば、海浜の町バルベックに吹き荒れる海上の嵐に憧れる『失われた時を求めて』の語り手はそういうとき、私の親しい友達のような気がする。以下は抄訳。
「潮気を含む永遠の霧に合わせて浮かび上がるバルベックの教会の彫像を実際に見られると思うと、息が止まるくらいの喜びが胸いっぱいに広がった。嵐になりそうな、されど暖かい二月の夜、風は私の部屋の煖炉の炎を小刻みに揺らめかせるくらい強く吹いて私のうちでゴシック建築への欲望と海上の嵐に対する欲望を混ぜ合わせるのだった」
だが、人はそれとほとんど同時に、明るい春への夢を持ち続ける。プルーストはそうした心理も見逃すことなくきちんと書く。
「もうひとつの夢があらわれた。それは嵐とは逆の、色彩豊かな春の夢で、といって霧氷の鋭い針先でちくちく肌を刺すコンブレーの春ではなくて、早くも百合やアネモネがフィレンツ近郊の野を覆い、アンジェリコの絵のように黄金の背景でフィレンツェの町をきらめかす春であった」
そして、春への夢が厳しい現実の冬と重なれば、喜びはそれだけ大きくなる。
「限りない幸福感を覚えたのは、いささか早すぎた春の日が訪れたあと、再び冬に逆戻りした天候のせいで急ぎ足で歩いていて、もうポンテヴェッキオ橋はたくさんのヒヤシンスやアネモネに覆われているだろうといった思いが浮かんだときだった」
冬のパリと春のフィレンツェのこうした重なりはいっそ感動的と言っていい。四季ある国に暮らす者たちのいわば特権である。
(2012年2月9日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)