「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。
[文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈今月の新刊〉
『悪霊別巻「スタヴローギンの告白」異稿』(ドストエフスキー 亀山郁夫/訳)
『メノン』(プラトン 渡辺邦夫/訳)
今月の新刊、一冊目は『悪霊別巻「スタヴローギンの告白」異稿』である。ドストエフスキーの『悪霊』の「チーホンのもとで」という章には、実は3つの異稿が残されている。本書は、亀山郁夫さんがそのすべてを訳出し収録したものです。
亀山さんは、あるエッセイで書いている。
「『罪と罰』はできるだけ早い時期に読んだほうがよいが、『悪霊』はできるだけ遅くまで読まないほうがよい、何ならいっさい手をつけずにおいてもよい、と。『悪霊』は、それほどまでに危険な小説である」
その小説の中でも一番の衝撃を受けたのは、「チーホンのもとで」の章に入っているこの「スタヴローギンの告白」で語られるエピソードだったと亀山さんはいう。革命組織内でのリンチ殺人をテーマにしたこの小説の主人公スタヴローギンが少女を凌辱した後のエピソードだ。
少女がスタヴローギンのところにやってくる。それを読んだ衝撃をこう書いています。
「土気色の顔をして戸口に現れ、拳を固く握りしめながら、何度も顎をしゃくって彼に抗議する。恐ろしく痛ましい光景である。その姿を目にした主人公が、そのときどう反応したかは描かれていない。しかし主人公の反応などいまはどうでもいい。問題は、この時、不幸にもわたしの心に生じた感情が、この『哀れな』少女に対する嫌悪感だったということ、しかもこの嫌悪感にこそ、ドストエフスキー文学の究極の『神秘』が宿っていると思いこんだことだ......」(「1972年1月、東京、西ヶ原」より『ドストエフスキーとの59の旅』<日本経済新聞社>所収)
この章に、なぜ3つの異稿があるのか?
その答えを亀山さんは、解説文で詳しく書いている。理由は、検閲。少女凌辱を含む「告白」のパートがあまりに反社会的であったためだ。小説を掲載していた雑誌の編集者に発表を止められたため、初校、ドストエフスキーの修正が入ったもの、諸事情による妻アンナの校正が入ったものという3つのバージョンが生まれることになる。
また小説『悪霊』の基本的メッセージである社会主義批判、革命批判が、著者死亡後のソ連体制下で問題視されたため、異稿の発見・発表は複雑なものとなる。
私が、この『悪霊別巻「スタヴローギンの告白」異稿』という小さな書物を手にした時、感じたのは3つのテクストを「読む」のではなく、「所有すること」でイメージが広がっていく感覚でした。はっきりいって、それぞれのテクストをいちいち読み比べようとは思わなかった。だが、亀山さんの解説文を読み3つの異稿を「所有すること」で、今までとは違ったドストエフスキーが見えると思えたのだ。
難しいことをいおうとしているのではない。ザ・ビーチ・ボーイズに「スマイル」というアルバムがある。60年代中期に制作されたが発表されることなく、ロック史上もっとも有名な未完成アルバムといわれたものだ。最近、当時録音されたものを再編集したものに、全セッションテープを加えたアルバムが発表された。また「スマイル」は、以前に発表されたグループの中心人物、ブライアン・ウィルソンのソロ名義版もある。
友人にビーチ・ボーイズの熱狂的ファンがいるが、昨年やっと発売されたこのアルバムを手にした時の嬉しそうな顔をよく覚えている。マニアとして収集欲を満たしたことと、そこからファンとしてイメージが広がることに思わず顔がほころんだのだ。
複数のバージョンを確認しながら、発表されなかった大きな要因といわれるブライアンの薬物中毒問題や、前作の素晴らしいアルバム「ペットサウンズ」を越えることのプレッシャー問題などを考えていけば、頭の中にファン同士で語れるまた新たな物語ができていけるだろう。集めて並べると見えてくるものがある。複数のバージョンを所有することで翼を広げる物語がある。
ビーチ・ボーイズからドストエフスキーに話を戻そう。この3つのテクストを所有するということで、展開するのはやはり検閲の物語だ。
しかしそれは、権力に抵抗する芸術家というわかりやすいドラマを抜き取った物語となる。
検閲というと、私たちはすぐに表現を弾圧する権力と、それに抵抗する芸術家という構図を思い浮かべるが、ここにはない。文字がどのように書き加えられるか、あるいは削除されたかが細かく見られていく。亀山さんが目的とするのは、「ドストエフスキー文学の究極の『神秘』が宿っている」細部を見ていくことだから。
大雑把なドラマを抜き取った後に現れるものは、校正をしながら自己検閲を行っている、一見すると地味な小説家の姿。しかし3つのテクストを並べてイメージを広げていけば、一人の小説家が言葉の世界にある境界線を引き、奪われてよいものと抱えておきたいものを分けていく様子が感じられる。
こういった小説家の姿が身近に感じられることは、実は稀なことなのだと思う。悪霊別巻「スタヴローギンの告白」異稿』は、ドストエフスキーが守るべきものと、それ以外のものを分けていく仕草を直に感じることができる特別な書物なのだった。
今月の新刊、二冊目はプラトンの『メノン』。哲学者ソクラテスと、若者メノンが「徳(アレテー)は教えられるか?」をテーマに議論する。そのダイアローグの展開を追っていく読物だ。
これを訳した渡辺邦夫さんの「訳者まえがき」によれば、ギリシャ北部テッサリアの若者メノンは、「一〇代半ばの少年美の盛りの頃、国の支配者」が恋する美少年でした。
そして「テッサリアにやってきた弁論家・弁論術の教師ゴルギアスの技術に、国の代表的な面々はみな魅了され」るのだが、メノンも同じく弁論術の練習に熱中する。「やがて二〇歳くらいのとき」ソクラテスと対話した際、自分の練習の成果をこの哲学者に認めさせようと議論が始められる。
ソクラテスは自分の論理を語るのではなく、とにかく相手に質問する。質問攻めにあわせて、自分と相手の間で論理を自然に展開させていく。弁論術で鍛えたメノンもその展開の流れに乗せられる。そしてふと最初に自分が主張した言葉とはまったく正反対の結論を語る自分に気づく。メノンは思わずこんなことをいってしまう。
「でも、まちがいなくわたしは、徳(アレテー)については、もう数え切れないくらいの回数、ものすごくたくさんの言論を、たくさんの人を相手に話してきたのです。そして自分自身の印象では、そうした言論は、非常にできのよいものだったのです。ところが今は徳(アレテー)が何であるかということさえ、まったく言うことができません」
議論の中で、完全に追いつめられてしまったメノン。困り顔の彼がいる。しかし思い出して欲しい。彼はものすごく美しい若者。困りはてている姿はものすごくカワユクて、それを見る者は、みなグッときてしまうはず。
ソクラテスもこの若者に魅惑されていることを隠さない。違う箇所だがこんなことをいっています。
「きみが対話しているとき、メノン、人はたとえ目隠しをされたって、きみが美しい人であり、きみを恋する人々がいまなおいるということは、わかるだろうな」
メノンは「いったいどうしてですか?」とまさにカマトトになって質問する。すかさずソクラテスが答える。
「なぜならきみは、議論においてああしろ、こうしろと言ってばかりではないか。それは若くて美の盛りである間、賛美者に対してずっと専制君主のようにふるまえたために、甘やかされ、わがままになってしまった人々がやることなのさ。それに、きみは同時に、わたしが美少年にはからきし弱いということに、どうやら気づいたようだね」
このような箇所を引用しているのは、私が別にBLモノが好きだからではない。「相手に魅了されている者の議論」に興味があるからだ。
私は、今まで真剣に議論したのは、恋愛した女とだけです。仕事は真面目にやっているつもりだが、仕事仲間とはあまり闘いたくないし、議論も真面目にしたくありません。真剣に向いたいのは恋した者だけ。そんな私は、相手の体や言葉に魅了されている者が、その相手と行う議論に興味があります。
相手を論破するのではない。相手の魅力を失わせないように、気持を消沈させないようにして、遂には自分の思考回路に沿わせていく議論の仕方が『メノン』では展開されている。
勿論、本書は「徳は教えられるか?」以前に「徳とは何か?」と問うことから始めるしかないという、ソクラテスらしいメッセージが最終的には語られます。しかしそこまでに展開される、相手を論破するのではない、二人の間で考えだけが展開していく議論の仕方は素晴らしい。恋した相手と、その体や言葉に魅了されつつ真剣に議論したことがある人には、それがわかるだろう。
この対話の後、若者メノンは対ペルシャ王との戦争に武将として参加。そして敗北し、捕えられて死んだという。「訳者まえがき」に書かれている事実が沁みるのは、この対論には生きている体が感じられたからだ。
この連載コラムで先月は、俳優座の芝居『カラマーゾフの兄弟』をとりあげた。あの時に劇場という空間に人が集まっているのを見るのはやはりいいな〜と思ったのだ。あれから劇場空間を感じさせる本を選んで読んでみることにした。
フランスの劇作家ロスタンが書いた戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』(渡辺守章訳)がこの文庫には入っている。
17世紀中期パリ。主人公のガスコン青年隊のシラノ・ド・ベルジュラックは、美しい言葉を語る詩人でもあった。だが彼は大鼻の持ち主であったために、素直に恋心を表現できない。そのためシラノは自身が秘かに想いを寄せる従妹ロクサーヌに恋した同僚クリスチャンのために、その詩人の才能を使うことを決意します。
この戯曲の人気の最大の理由は、恋する者が語る言葉の素晴らしさ。その超絶技巧の恋の言葉が、大きな鼻をもっているがために、悲劇的運命に陥るシラノのセリフとして語らせているところが魅力的なのだ。
そして芝居の始まり第一幕は、ブルゴーニュ座という劇場に設定されている。幕開きはダイナミックな群衆劇になっています。
騎士、町人、召使い、小姓、侯爵たち、詩人、花売り娘、そしてスリまでも観客として劇場にやってくる。口々に何かを話しながら入場してくるのだが、それが実にリズミカルだ。台詞はすべて「アレクサンドラン」という十二音節の定型詩句。その詩句の一行を複数の人が会話に振り分けて話してやってくるのだ。たとえばこうなる。
(この改行の仕方は、定型詩形が意識できるように訳者の渡辺さんが行っている「韻文分かち書き」である)
こうして一行の詩句を振り分けて群衆が叫びながらお喋りしながら囃しながら入ってくる。そのざわめきのなかでシラノの噂が語られていく。こうした群衆劇が盛上ったところで劇中劇が開始。その芝居を止める形で主人公シラノが登場する。
ここまでの流れにうっとりする。様々な階層の人間が集まってくる劇場の魅力がたっぷり溢れている。
ここで街の話題、ある雑誌の話をしよう。「東京かわら版」という寄席演芸専門の情報誌がある(東京かわら版発行)。東京圏で開かれている落語を中心とした演芸の会の情報を毎月700件前後載せたコンパクトな雑誌だ。落語好きには、そば屋の二階で開かれるような小さな会までチェックできる専門誌としてよく知られている。
先日、「東京かわら版」の主催者、井上和明さんの話を聞くことができた。そこで出た話は、この都会で何かを楽しみに集まってくる人の流れ、その様子が強く感じられるものだった。
2月17日、東京・高円寺駅北口仮設テントで「日本で唯一の演芸専門誌『東京かわら版』創刊38年祭り!」というタイトルの、コラムニストのえのきどいちろうさんが井上さんの話を聞いていく会があった。
まず創刊当時の話が面白かった。70年代中期、寄席はともかく小さな落語の会の情報を知るのは本当に難しかったようだ。落語の通が洋食屋などで開いている会などは、「わかっている人」しか開催日を教えないありさま、またホール落語が盛んになっていく時代だったが、それすら新聞の片隅に一、二行宣伝文が出る程度だったらしい。
こうした中で、落語ファンの縁を辿って井上さんは情報を集めていく。少しずつページが増えていく「東京かわら版」を使って、落語を見る客が動き出す。都会で客が動く様子を、えのきどさんは「回遊魚」という言葉で表現し、こんな話をした。
「落語や音楽のライブを見つづけていくと、回遊魚のように、会場を渡り歩いている集団がわかってくる。ある落語の会に行くと、その回遊魚たちがいない。『かわら版』で調べてみると、他のもっといい会があった! なんてことがある。また、その中には優れた魚がいる。落語の会と、僕の好きな日本ハムの試合でまた会ってしまうような人ですね(笑)。つい最近亡くなったライターの川勝正幸さんもそんな人でした。観客の中に、川勝さんを見つけると、おっ、この会はすごいんだと思える目利きの人だったのです」(文責・渡邉)
演芸場や劇場、ライブスポットに人が集まってくる、その楽しさを語る話だった。小さな情報誌を通して、何か面白いものを求めて都会を動く人々の流れが見えた。
そして『シラノ・ド・ベルジュラック』である。私は、劇場に入って来る観客たちの様子がダイナミックに描写される第一幕が大好きなのだ。イメージの中で「アレクサンドラン」のリズムで入場する騎士、町人、召使い、花売り娘、スリたちの間に、川勝さんやえのきどさんのような目利きの人も混ぜてみると、なんだかウキウキしてくるのだった。
さて、久しぶりに新宿末廣亭にでも行ってみようか。帰りには三丁目の酒場にでも顔を出してみよう。