産経新聞(大阪版)の夕刊文化欄で連載中(毎週木曜日掲載)の高遠弘美さん(『失われた時を求めて』『消え去ったアルベルチーヌ』の翻訳者)「プルーストと暮らす日々」の第42回をお届けします。
プルーストと暮らす日々 42
プルーストを読まなければ手を出さなかったかもしれない本が何冊もある。そのひとつが『千一夜物語』である。『アラビアンナイト』『千夜一夜物語』と呼ばれることもある。
あるときは皿に描かれた「アラジンと魔法のランプ」などの絵を通じて、またあるときは戦時下の夜のパリをさまよう語り手を『千一夜』に出てくるカリフ(回教の教主)に喩(たと)えるといった具合に、『失われた時を求めて』では諸処で『千一夜物語』に関する記述が見られる。
だが、もっとも重要なのは最終巻「見いだされた時」の最後の数ページで、語り手が「おそらくは『千一夜物語』のように長い、しかし、まったく別の書物」を著す決意を書きつけるところだろう。
『千一夜物語』は、シェヘラザードという語り手の女性が、朝になったら命を奪われるかもしれない状況の中で王に毎夜、物語を語り続けることで生き長らえ、一千一夜目についに残忍な王を改悛(かいしゅん)に至らしめるという枠組みになっている。
昼夜逆転した生活を送り、いつ死ぬかわからないなかで書く決意をする語り手が、ここではシェヘラザードだけではなく作者プルースト自身の姿とも重なって、読者に迫ってくる。
私にしても、『失われた時を求めて』でそれだけ言及されている作品を読まないわけにはいかなくて、最初に『失われた時を求めて』を読み切ったあと、岩波文庫二十七冊本『千一夜物語』(マルドリュス仏訳からの重訳)を一気に読むことになった。それはプルーストとはまた違った読書の喜びを与えてくれたけれど、そのうち、プルーストが読んだ仏訳で読みたいという気持ちが昂(こう)じて十八世紀のガラン訳二種、十九世紀末のマルドリュス訳三種を手に入れて愛読していた。
ところが近年、種々の仏訳が相次いで刊行され、二〇〇五年にはプレイヤード叢書(そうしょ)に三巻で入ったのだ。
この叢書は造本もしっかりしているし、携行も楽である。今では翻訳の底本にしている同じプレイヤード叢書版プルーストと並べて机辺に置き、気が向くたびに日も繙(ひもと)いている。
(2012年3月8日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)