産経新聞(大阪版)の夕刊文化欄で連載中(毎週木曜日掲載)の高遠弘美さん(『失われた時を求めて』『消え去ったアルベルチーヌ』の翻訳者)「プルーストと暮らす日々」の第44回をお届けします。
プルーストと暮らす日々 44
プルースト『失われた時を求めて』の映像化には『スワンの恋』や『見出された時』のほか、時代を現代に移した『囚(とら)われの女』や四時間近いテレビドラマ『失われた時を求めて』などがある。そういう衝動に駆り立てる要素が『失われた時を求めて』にはあるということなのだろう(実際に撮影はされなかったヴィスコンティ監督の脚本による『失われた時を求めて』や、これは映像ではないが、中村真一郎によるラジオドラマもある)。
だが、映画化された作品を見る限り、どれも中途半端な感じが否めない。というより、私の偏見かもしれないのだが、映像化しえない文学作品というものがあって、その代表的な作品が『失われた時を求めて』であるような気がして仕方ない。
まずは主人公の風貌。『失われた時を求めて』の場合、顔が見えないからこそ読者それぞれが自由に「語り手」に同化できるのに、たいていはプルースト本人に似た俳優に、同じような顔つきをあたえるばかりで、どうにも興が冷める。
ついで、それぞれの登場人物の類型的演出。たとえばシャルリュス男爵。彼はゲルマント家の大立て者で芸術の理解も深い。ただ、同性愛者ということもあって映画ではいかにもそれらしい目つきをしたり尊大ぶりを妙に強くアピールしたりで、やはり不自然さが残ると言わざるを得ない。
それに、『失われた時を求めて』の大きな魅力は以下のような比喩や精緻(せいち)な分析や描写だったりするのだが、そうした表現そのものを映像化するのはほとんど不可能に近いだろう。
「どんよりとした暗い空から雨が降りそそぐ野原は海のように見えたが、その遠くの彼方此方(あちこち)に、夜と水に沈んだ丘の斜面にぽつねんと張りついた家々が、帆をたたみ、沖合で一晩中停泊している小舟のように輝いていた」
プルーストを読む愉(たの)しみの一つは、読者が自由に人物や比喩や光景や思考の流れを想像できることにある。エピソードを具体的に繋(つな)げざるを得ない映画ではそれは難しいのではあるまいか。
(2012年3月22日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)