産経新聞(大阪版)の夕刊文化欄で連載中(毎週木曜日掲載)の高遠弘美さん(『失われた時を求めて』『消え去ったアルベルチーヌ』の翻訳者)「プルーストと暮らす日々」の第45回をお届けします。
プルーストと暮らす日々 45
卒業シーズンである。この時期になると、私は自らの卒業論文のことを思い出す。学部の卒業論文で私が採り上げたのはプルーストではなくて、アルベール・カミュだった。
大学に入って初めてフランス語を学んだ私が最初に原書で読み通したのはカミュの短篇集『追放と王国』、それに『異邦人』だった。思索に満ちながらも、新鮮な生の息吹を感じさせるその文章は若き私の心を鷲摑(わしづか)みにしたのだ。小説に続いてエッセイ集『裏と表』と『結婚』を原文で読むに至って卒業論文はカミュを書こうと決意した。
その後、三年生で仏文科に進んで私はプルーストの魅力に開眼した。こういうときはさまざまな啓示があるもので、カミュを読んでもプルーストにどこかで繋(つな)がってくる。プルースト訳者の井上究一郎訳で、カミュの師だったジャン・グルニエの書いた『アルベール・カミュ回想』を読んだのも、カミュの長篇評論『反抗的人間』でこんな言葉に遭遇したのも今になって思えば運命というほかない。
カミュは不条理というしかない生の条件を押しつけられた人間がどのようにして人間的尊厳を見いだすかを力強く説いている。ごく一部を抄訳してみる。
「プルーストの世界は神無き世界だと言えるだろう。それは神について語られていないからではなく、完全に閉じられた世界を目指しつつ、永遠なるものに人間の相貌を与えようという強い願いがあるからだ。プルーストの芸術は死すべき人間の条件に反抗するもっとも並外れた、そしてもっとも意味深い目論見の一つに思われる」
それならばどうしてプルーストを卒業論文で採り上げなかったかと言えば、原文で読む自信も学力も備わっていなかったからだが、同時に、ここでカミュについて書いておかなければずっと後悔するのではないかという思いもあった。
いま卒業論文を読み返すと、随所にプルーストが引かれていて、何だか不思議な気がする。三つ子の魂百まで。この先も私がプルーストから離れることはないのだろう。
(2012年3月29日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)