産経新聞(大阪版)の夕刊文化欄で連載中(毎週木曜日掲載)の高遠弘美さん(『失われた時を求めて』『消え去ったアルベルチーヌ』の翻訳者)「プルーストと暮らす日々」の第50回をお届けします。
プルーストと暮らす日々 50
『失われた時を求めて』全七篇それぞれの書き出しはみな印象的だが、第三篇「ゲルマントのほう」冒頭も最初に原文で読んだときから覚えてしまったほどである。
語り手一家はパリのゲルマント家の館に繋がっているアパルトマンに引っ越してくる。語り手も女中のフランソワーズもこの新しい住まいにすぐに慣れることができない。フランソワーズは他家の女中たちとまだ親しくなっていないから、彼女たちの話し声や足音に一々ショックを受ける。そんなフランソワーズを描写する冒頭部分はこうだ。
「朝の鳥のさえずりもフランソワーズには何ともつまらぬものに思われた。『女中』たちの発する一言一言に飛び上がらんばかりに驚いてしまうのである」
これは裏を返せば、すでにこの家になじんでいれば朝の鳥のさえずりに心ときめくところなのに、ということを意味する。だから読者はこの冒頭を読んだだけでパリの朝、目覚めの耳に聞こえてくる鳥のさえずりが本来ならばいかに心地よいものかを無意識のうちにすり込まれることになる。
今回のパリ住まいで私はほとんどはじめてその楽しさを知った。住む場所のせいなのか、今まで日本で都会暮らしをしていて聞こえるのはかしましい烏(からす)の鳴き声ばかりだったのだが、公園が目の前にあるこのアパートでは朝、空が明るみ始めるころから黒歌鳥(くろうたどり/メルル・ノワール)のさえずりが聞こえてくる。烏はめったに来ない。
仏和辞典でメルルを引くと多くは「つぐみ」と書いてある。このあたりが東西の違いで悩ましいのだが、「ノワール」(黒い)がついたからといって「黒つぐみ」になるわけではなくて、日本で言う「黒つぐみ」はヨーロッパにはいない同じ仲間の別種の鳥なのだ。
黒歌鳥はヨーロッパ各地で紋章になっているくらい親しまれている鳥だが、英語では「ブラックバード」と呼ぶ。メシアンというフランスの作曲家に「メルル・ノワール」という小品があるが、これがビートルズの曲「ブラックバード」のヒントになったという説もある。
(2012年5月10日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)