産経新聞(大阪版)の夕刊文化欄で連載中(毎週木曜日掲載)の高遠弘美さん(『失われた時を求めて』『消え去ったアルベルチーヌ』の翻訳者)「プルーストと暮らす日々」の第51回をお届けします。
プルーストと暮らす日々 51
今回、資料以外にパリまで持ってきた本に吉田健一の著作がある。今年で生誕百年となる吉田は若い頃パリで過ごしたことがある。その吉田の本は私のパリ暮らしに欠かせないと思ったからだ。もし吉田健一がいなければ、文学に対する私の考えは随分異なっていただろう。
最初の出会いは『ヨオロッパの世紀末』(一九七〇)だった。敬愛する小説家の石川淳が新聞の文芸時評で高く評価していたのが手に取るきっかけだったかもしれない。この一冊で吉田健一の文章の魅力にとらわれ、以後、手に入る限りの著作はすべて読んだ。
吉田健一から教わったことは無数にあるけれど、いくつか断想風に書けば......
一、文学を読むのは苦行ではなく喜びであること。
一、個々の作品に向かうことなく、一般論に敷衍(ふえん)するのは危険であること。
一、言葉の発する魅力に敏感たるべきこと。
一、文体が感じられないものは文学ではないこと。
一、小説だけが文学ではないこと。
一、詩の世界を味読すべきこと。
一、本には本の手触りと姿があること。
若いときにこういうことを吉田の著作を通じて徹底的に叩(たた)き込まれた者としては、プルーストを読むときに感じてきた「読書の喜び」を翻訳でできる限り生かさなくてはならないと肝に銘じているが、仕事とは別にいまなお再読する吉田の本がたとえば『書架記』(一九七三)である。
これは文庫版ではなくて、造本も活字も紙の色も美しいオリジナルの版が好ましい。同書で吉田は書く。漢字は新字にして引こう。
「友達の一人から『失はれた時を求めて』を毎年一度は読み返してゐるうちに仮綴ぢの本がばらばらになつて来たので本式に装釘(そうてい)し直しにやつて今でも読んでゐるといふ話を聞いた。(略)本は繰り返して読めるやうに書くものであり、兎(と)に角プルウストはそれが出来る」
再読できなければ本の意味がない。こういう文学のイロハを私は吉田健一の文章から学んだのだ。
(2012年5月17日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)