産経新聞(大阪版)の夕刊文化欄で連載中(毎週木曜日掲載)の高遠弘美さん(『失われた時を求めて』『消え去ったアルベルチーヌ』の翻訳者)「プルーストと暮らす日々」の第52回をお届けします。
プルーストと暮らす日々 52
この原稿を書いている部屋はおおむね北を向いているので真冬になったらさぞかし寒いだろうが、光線が安定していて、室内にいて仕事をしたり疲れた目を休めるために外を見たりする分にはすこぶる都合がいい。そういえば、今まで住んだことのある部屋は日仏を通じて概して南向きの部屋が多かったので、北側の部屋というのはたぶん初めてである。
光線の加減で、画家のアトリエは北向きが多いと聞いたことはあるが、画家ならざる私としても、まことに嬉しいことがあった。
ここはネオンのまったくない住宅地で、すぐ目の前には公園の樹木の梢しかなく、視界の半分近くが空なので、よく晴れた深夜には星が見える。夜中まで起きていてふと空を見ると、何と大熊座が見えたのだ。まさかパリのこんな街中で北斗七星が見られるとは思っていなかったので、時を忘れて眺めるうちにふと『失われた時を求めて』の一節が浮かんだ。第一篇第三章。
海辺のリゾート地、バルベックを太古の自然がそのまま残った悠久の土地であるかのように想像していた語り手はスワンから、そこがロマネスク様式を採り入れた教会が建つ歴史的な町であると聞いて感動する。
「それまでは、地質学上の大変動の時期のなごりを今にとどめる太古の自然だけでできていると思われたそれらの場所(大洋や大熊座と同じく人間の歴史の埒外(らちがい)にあり、共にある者としては、鯨同様、中世という時代を知らない未開の漁師たちしかいない場所)が、突如として、ロマネスクの時代を経験した存在として歴史の流れに入り込むさまを目の当たりにしたり(略)するのは、私には大きな魅力に感じられた」
プルースト没後九十年目の年にパリに住む私の目の前に、プルーストも、もちろんそれ以前の無数の人々も見た星がきらめく。
彼方のマンションの明かりも消え、オレンジ色の街灯だけが道路を照らす深夜、長い歴史を持つこの街の上に輝く、有史以前から存在する星座を見て、私は宇宙を支配する「時間」の不思議さに打たれている。
(2012年5月24日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)