産経新聞(大阪版)の夕刊文化欄で連載中(毎週木曜日掲載)の高遠弘美さん(『失われた時を求めて』『消え去ったアルベルチーヌ』の翻訳者)「プルーストと暮らす日々」の第53回をお届けします。
プルーストと暮らす日々 53
文楽の竹本住大夫師匠の三味線をつとめる野澤錦糸師匠は巡業先で商店街を歩くのが好きだと仰言(おっしゃ)る。小説家の檀一雄も新しい土地に来るとどんな店があるか歩いて回ったという。私もそこまでは行かないけれど、陳列された商品を見るのが好きである。人々の生活が垣間見えるからかもしれない。
近くに大きなスーパーが何軒もあるので、買い物がてら棚に並んだ商品を眺めるのだが、時々びっくりするような品物に出会う。先日も「パン・デピス」(スパイス入りパン)という名前の香料入り石鹸(せっけん)を見つけて思わず買ってしまった。
フランスでは南仏産のマルセイユ石鹸の人気が高い。硬水でよく泡立ち、しかも肌に優しいマルセイユ石鹸のいわば同種の製品も多く出ていて、そのなかに、「パン・デピス」と名づけられたものがあったのだ。
パン・デピスはライ麦、小麦、蜂蜜、砂糖、香辛料(生姜(しょうが)や肉柱やアニス)で作った菓子パンの一種である。大雑把(おおざっぱ)に言えばジンジャー・ブレッド(生姜入りパン)に近い。私の贔屓(ひいき)の店では六百円見当はするかなり高級なパンである。
どうしてパン・デピスの石鹸でそれほど驚いたかというと、『失われた時を求めて』の語り手が憧れる登場人物の一人、スワンがこのパン・デピスをこよなく愛していると書かれているせいである。引用しよう。
「スワン氏がパン・デピスを買わせるのはその店で、ユダヤ人特有の湿疹とユダヤの預言者たちから連綿と続く便秘に悩まされていた氏は健康のために、そのパンを大量に食べていた」
ユダヤ云々(うんぬん)は聖書の記述に由来するので実際の民間療法とは違うにしても、生姜や芹(せり)の一種であるアニスなどは、古来健胃剤や鎮咳剤(ちんがいざい)として用いられてきた。それらを混ぜ込んだパン・デピスはいかにも体に良さそうである。
しかし、それがよもや香料入り石鹸の商品名になっているとは思わなかった。実際に使ってみると、たしかにパン・デピスの香りがして、そこはかとなく健康にいいような気がしてくる。私が暗示にかかりやすい質ゆえであろうか。
(2012年5月31日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)