産経新聞(大阪版)の夕刊文化欄で連載中(毎週木曜日掲載)の高遠弘美さん(『失われた時を求めて』『消え去ったアルベルチーヌ』の翻訳者)「プルーストと暮らす日々」の第59回をお届けします。
プルーストと暮らす日々 59
先日、思い立ってさるレストランへ出かけた。とくに十九世紀半ばから百年ほどは人気も評価も高く、モーパッサンやユーゴー、デュマやゾラなども通った名店である。ここに通った架空の人物にスワンがいる。『失われた時を求めて』に出てくる有名レストランは現在ほとんど廃業しているのに、その店は今も昔の建物のまま営業しているのだ。スワンがどうしてここにときどき通ったかといえば、つれない恋人のオデットが住む通りの名前と同じだったからである。
オデットは子供の頃ニースで、母親の手で英国人の富豪に身売りされ、レビューのお踊り子など数々の遍歴ののち、高級娼婦(ココット)になる。高級娼婦とは裕福で社会的地位も高い男(たち)に囲われている女で、「裏社交界」の女とも言われた。『椿姫』の主人公もそう。
スワンは紹介された当初はオデットのことを凡庸な女だと思うのに、ボッティチェリの絵に出てくる女とそっくりだと思った瞬間、彼女が好きになる。その恋の顛末(てんまつ)をみごとに描き切ったのが第一篇第二部「スワンの恋」である。第三部になって二人の間に生まれた娘(語り手の初恋の相手ジルベルト)のこともあってスワンがオデットと結婚したことが明かされる。
ここでは、スワンが一気に恋の深みにはまるきっかけとなったある晩の描写を引いてみよう。サロンで逢えなかった女を探しまわるこの夜のスワンの切迫した恋情が、死んだ妻エウリュディケを探しに冥界へゆくギリシア神話のオルペウスの比喩を通じて切々と伝わってくる一節(抄訳)。
「灯りはすでにおちこちで消え始めていた。誰ともわからぬ人のかたちが眼に入るたびに、スワンは不安げな様子を隠さずに、すぐそばを通って確かめていった。そのとき、彼にとってあの女は、冥府のなかを、そこかしこにさまよう亡霊のあいだを縫ってでも探すべき女、エウリュディケなのだった」
ちなみに通りの名前はラ・ペルーズ。宗谷海峡の国際的な名称にもなった探検家の名前である。レストラン名もそれに由来すると聞いた。
(2012年7月12日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)