2012.07.26

高遠弘美さん–産経新聞夕刊(大阪版)連載 第60回 「プルーストと暮らす日々」

産経新聞(大阪版)の夕刊文化欄で連載中(毎週木曜日掲載)の高遠弘美さん(『失われた時を求めて』『消え去ったアルベルチーヌ』の翻訳者)「プルーストと暮らす日々」の第60回をお届けします。

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プルーストと暮らす日々 60

フランス語を習い始めたときの教科書には愉(たの)しい例文がいくつもあって、今でも覚えている一つに「フランス人は一年の半分は過ぎたバカンスのことを思い出し、あとの半年はこれからやってくるバカンスのことを考えて過ごす」がある。

バカンスは現在では五週間の有給が認められていて、会社は従業員にそれをとらせる義務がある。やはり休暇を夏にとる人々が多くて、南に向かう道路が大渋滞になる日は何日もある。

七月になったらどこのレストランでも「バカンスはどこに行くのですか」と訊かれるようになった。ずっとパリで仕事をするつもりだと言うと、みな異口同音に「パリにいるんですか? 暑いですよ」などと言う。それはいいのだが、はたと気がついた。つまり、それを訊いてくる馴染(なじ)みの店は軒並み、三週間から四週間休むということなのだと。もちろん自炊をし続ければいいことだけれど、仕事に疲れれば外食もしたくなる。しかしどこで訊いても七月末から三週間くらい休むというのだ。仕事の進行具合にもよるけれど、もし行けるとしたら私は、カブールを再訪したいと思う。バルベックという避暑地のモデルとなった海浜の町で、グランドホテルにはプルーストの名前を冠した食堂もある。たとえ数日でも、いつか行ったときのように、日がな一日海を見ていてもいい。だが、旅行の楽しみの大きな部分はそれを想像する過程にある。

バルベックへ行くことになった語り手はこんなふうに思う。第二篇。

「それゆえ私たちはあの一時二十二分の列車ですんなりパリを出発することになった。その列車は鉄道の時刻表でずいぶん長い間小躍りながら探したのだったが、時刻表を見るたびに私は感動を覚え、すでに出発したような幸福な幻想を与えられたので、列車はもはや旧知の存在に思われた」

私も実際に行けるかどうかは別にしてせいぜい旅行のパンフレットを眺めて楽しむつもりでいる。二十世紀になって一般化したバカンス。これはやはりフランスの生活の根柢(こんてい)を支えているようである。
(2012年7月19日 産経新聞(大阪版)夕刊掲載)

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