小説『ブラス・クーバスの死後の回想』は、私たちがあまり触れることのないブラジル文学の古典です。しかし、読んでみると、古典と呼ぶには、あまりにも型破りで奇抜な形式と内容に、大きな衝撃を受けると思います。
この小説を古典とするブラジルとはいったいどんな国なのか、そもそも160の比較的短いテクストで主人公の人生を語りきる方法を、作者マシャード・ジ・アシスはどのように手に入れたのか。 たいへん興味深い話を、本書を訳した武田千香さんからお聞きすることができました。
──『ブラス・クーバスの死後の回想』との出会いを教えていただけますか。
最初に読んだのは、1989〜90年、ブラジリア大学で留学していた時でした。
当時日本では、ブラジル文学を学ぶ環境は未整備で、日本語で書かれた入門書もまったくなかったのです。
たまたまブラジリアに住む機会を得たので、ブラジリア大学に通ったんですね。ブラジルの文学に関連する学部の授業はすべて出席するというたいへんエライ学生でした(笑)。一般的にブラジル文学とされるものの歴史は、この土地にポルトガル人が上陸して以来の、大航海時代の情報文学といわれるものに始まり、バロック文学、新古典主義文学、ロマン主義、写実主義文学などを経て、モダニズム文学、そして現代の文学へと連なっていきます。授業もその流れに沿って開講されていましたので、それらの授業はすべてとったんです。
その中の一つに「写実主義」という授業がありました。普通の授業だと、その時代の主要な作家たちを均等に扱い、その作品を順々に教えていくものなのですが、その先生は、なんとマシャード・ジ・アシスという一人の小説家を取り上げるのみ、それも『ブラス・クーバスの死後の回想』と『ドン・カズムッホ』だけしか扱わないんです。
──けっこう極端な授業での出会いでしたね。
そうなんです(笑)。しかも、この先生が学生を挑発しながら小説を読んでいく。たとえばこんな具合です。主人公のブラス・クーバスが、足の悪い女性を一週間弄んだ経験を綴った章があります。その次の章、主人公は読者に向かってこう語ります。
「いま、わたしの本を読んでくれている読者の五人か十人の中に、ひとつぐらいは繊細な心が宿っていて、前章を読んできっとやりきれない気持ちになり、(足の悪い女性)エウジェニアの行くすえを思って震えはじめ、おそらくは(中略)わたしのことをシニカルなやつと思ったことだろう。わたしがシニカルだって? 繊細な心よ、冗談じゃない」
この箇所を読んだ後、先生は「ブラス・クーバスのいうことはあっていて、読者は震えることはない。この女性が捨てられるのは、当然なんだから」と私たち生徒たちに語りかけるわけですよ。
良識に縛られた私たちとしては、非常にとまどいまして、「足の悪い女性がカワイソすぎる、ブラス・クーバス、酷すぎる!」とか先生に意見をいったりしました。
こうして、先生の言葉やこの小説家の思想に反撥したり、説得されたりしながら、学生は作品を徹底的に深く読んでいくことになります。するといろんなことが見えるようになってくる。
先ほど、引用した文章には、まだ言葉が続いていて、しばらく読んでいくと、こんな言葉が出てきます。
「いや、繊細な心よ、わたしはシニカルではない。わたしは人間だったのだ」
ちょっと大げさかもしれませんが、私はこの「人間」という言葉で、ブラジル的人間観に触れるきっかけを掴んだように思います。
ブラス・クーバスがいう「人間」って、自分の中にある善も悪も同時に受け容れる時の「人間」なんですよね。何か非常に寛容な、ありのままの人間を認めてくれるところが、ここにはあります。そしてこれはとてもブラジル的な人間観だな〜と思うのです。
──そのブラジル的な人間観とは?
そもそも私がポルトガル語を学びたいと思ったのは中学生のころでしたが、それはブラジルに行きたいと思ったからなんです。当時はまったく自覚していなかったのですが、きっと行けば解放されると思ったんでしょうね。
今もブラジルへよく行きますが、ブラジルに行くと、「人間になれる」って、感じるんですよ。たとえば太る自由(笑)。日本は、やはり痩せ型志向が強いから、太ってくると大きめの服を来て、体を隠したりしますよね。でも、向こうは三段腹だろうが五段腹(笑)だろうが、体形が露わになるぴっちりとした服を普通に着ます。
ある時、私がブラジルの友人に「日本では太っていると、あんなに体形がはっきりと出る服は着にくいんだよね」と言うと、彼は「えっ! なんで? どんな体形だって人間の身体は美しいんだよ」と驚いていました(笑)。ありのままの人間を認める姿勢が日本よりはあるように思いました。
この「人間」と、ブラス・クーバスの「人間」は通じるように思います。『ブラス・クーバスの死後の世界』では、美と醜、善と悪など、現実の社会では相反するようにみえるものが、実は「人間性」に宿る同根のもので、その二つを一緒に認めるんです。だから美や善があるところでは、それが醜や悪となり、またその反対もありうることが理解できる。そのように人間の多面性を受け容れる傾向が、ブラジルの現実社会でも日本より強いように思うんですね。だからさっきの友人の言葉も、あ〜ブラジル的人間観だなあと感心したんです。
でもここでいう善と悪は、それら自身が互いに対立するわけではありません。くどいようですが、善も悪も実は同根で、そのいずれも根っこには人間のエゴがあり、都合と必要性に応じて善として表われたり悪として表われたりする。言ってみれば善が対立するのは非・善であって悪ではない。そうやって善という表の価値観を、善ではないものにずらしていくわけです。
こういう相対的な価値観は、もしかしたらブラジルがポルトガルの植民地であったことと関係があるのではないかと考えています。この国はヨーロッパの価値観をおしつけられてきた国です。それらは撥ね除けようとしても非常に難しい、そのためそれらをずらすことでうまくかわしながら、二面性ないし多面性をもつようになっていったんじゃないかと思うんです。
──それは、実際に住んでみて感じたことですか?
私は2008年から2009年にかけて、リオデジャネイロに10ヶ月住んだことがあるのですが、それを考え始めたのはそのときでした。
それまで私が住んできたのは、ブラジリアやサンパウロなど、この国で奴隷制が廃止された1888年以降に生まれたり大きく発展したりした都市だったせいか、それほど感じなかったのですが、リオデジャネイロはもっと以前から栄えていた都市です。そのため、奴隷制のあった頃のブラジルを強く残しているところがある。現代の都市にもかかわらず、主人と奴隷の関係に根がらみにされた「屈従」ともいうべき人間関係がまだ残っているように思ったのです。
奴隷制の下では、主人が白い紙を見て黒いといえば、奴隷は「はい、そうですございます」といわなければならないほど厳格な主従関係があります。その一方で、奴隷小屋では、彼らはアフリカから持ってきた宗教に根差したもう一つの世界を持っていたと思うんですね。そこでは彼らはかりそめかもしれないけれど、自由に想像できる世界がある。そうした二重構造が、今も残っているような気がしてなりません。
たとえば、ブラジルでは長年カトリックが公式の宗教でした。しかし、その一方で人々は、民間信仰や迷信が混ざった民衆的なカトリックやアフリカの神々への信仰も持っていました。
──二面性をもった社会を背景にして、善と悪という二面性をも同時に受け容れるブラジル的な人間観が生まれたということですね。
そうですね、そこはつながっているように思います。
ブラジルは、ヨーロッパから押し付けられた規範を、ずらしながら自分たちの文化や社会を作っていたように思えます。私はブラジル文化を理解するためのキーワードは、「ずらし」なのではないかと思っています。
──面白そうですね。ブラジル文化の中で、どんな「ずらし」が発見できますか?
私はブラジル文学ばかりでなく、音楽も非常に好きなのですが、サンバのリズムなどにも、この「ずらし」が見られますね。
ロックのリズムは、律動的で規則的なリズムを作っていきますが、サンバの場合はシンコぺーションをいれながら、リズムをずらして展開されます。
サンバで使う楽器も特徴的で、パンデイロというタンバリンを少し大きくしたような楽器は、太鼓のようにリズムを打つと同時に、それに付いている金属片でリズムを分散させます。シェーカーという缶カラに小石をいれたような楽器は、まさに小さなリズムを分散的に生み出していくものです。
対抗文化的なレベルで見ていくとこうなります。ヨーロッパの〝正当(正統)な″音楽、クラシックをXとするなら、ロックは反X、そしてサンバは非Xのように思うのです。私にはXじゃないものを無数に散らばし生み出していく音楽のように聞こえます。
──「無数に散らばす」といえば、この小説も160の比較的短い章で構成されていますね。
この小説の場合の断片化は、本自体がブラス・クーバスという男の人生を模して作られていることと大きく関係していると思うんです。章の一つ一つが人生の局面なんですね。
章の中には、非常に短いものもありますが、よく見てみると、その頻度が前半と後半で違っているんです。後半の方で短いテクストが増えているんですね。それはいろいろな解釈ができると思いますが、人生の疲れや息切れを示しているともとることもできます。
また小説の中に、「ウマニチズモ」という不思議な思想が登場するのですが、それ以降、短い章が増加していることに注目すると、この短さは、達観、悟りといったことを示しているのかもしれません。
つまり、文章内容だけではなく、リズムをつくって、この主人公の人生を表現しているのです。
──なるほど。では、こうした奇抜な形式を、作者のマシャード・ジ・アシスは、どのように生み出したんでしょう?
私は、そのヒントがレヴューにあるのではないかと思っているんです。レヴューというのは、19世紀のヨーロッパで生まれた、音楽、ダンス、寸劇などで構成された大衆演劇です。
ブラジルにはポルトガル経由で、1859年に入ってきて、1880年代には急速に盛んになっています。どんなレヴューかというと、たとえば1月に上演されるものだと、前年のブラジルで起こった事件や出来事をテーマに、総集編的に構成されています。唄と踊りを交えながら、昨年の政治的なスキャンダルを皮肉ったコントが演じられるといった具合です。
特徴は、短い断片のようなコントが、唄と踊りによってつながっていること。場面が勢いよくどんどん変わっていく、非常にスピーディに展開する演劇です。
そしてレヴューは寓意的な手法をとることも特徴なんですね。寓意とは、他の物事にかこつけ、ほのめかして意味を伝えていくということです。動物たちの争いにかこつけて政治家を皮肉るようなことですね。こうしたコントでは、二つの対照的なものを戦わせるというのがよく使われる形式なのですが、たとえばそれによって善と悪との戦いなんかが表現できるわけです。
断片のような場面がつながっていく構成、そして善と悪などの対立概念が多くみられる寓意的物語。この小説ととても似ていると思いませんか?
私は、マシャードが、同時代に隆盛しつつあったレヴューという大衆演劇の形式を使って『ブラス・クーバスの死後の回想』を書き上げたような気がしてならないんです。
ただそんな推論は、私の知る限り、ブラジルでは聞いたことも読んだこともないんですね。きっとそれは、この小説がブラジル文学の古典として読まれているために、なかなか大衆演劇に影響を受けているという考えには結びつかないからかもしれません。
──ブラジル文学の古典......。実はそこがわからないところなのです。奇抜な構成形式など、実験小説のような印象が強く、この作品を古典と呼ぶには違和感があるのですが。
面白いですね。そのご質問からも、まさにブラジルの「ずらし」に気づかされたように思います。つまりブラジルは「古典」というイメージをもずらし、「非・古典」を「古典」としているのかもしれません。
ブラジルの文学は、ヨーロッパの文学に直接的に影響を受けてできあがってきました。とりわけ1822年に独立した後はフランスの文学にあこがれ、その影響を強く受けました。
当時のブラジルの作家たちは、フランスの文学にならって小説を書き、テーマや物語の展開はそのままフランスのものを踏襲し、その中にブラジルの風土や文化現象を絵画的に織り込むというパターンが多かったんです。
しかし、マシャードはそうはしなかった。ブラジルのエッセンスを書き込もうとしたんです。フランス的な小説に絵画的なブラジルの風景を導入するのではなく、まったく新たなブラジルならではの形式をつくり、それを通してブラジルの精神、たとえば人間観や世界観、思考様式などを表現しようとしました。そして、『ブラス・クーバスの死後の回想』で、それに成功したのです。
そのような意味で、形式は実験的ですが、ブラジル文学はここで大きな跳躍を果たしたということができる。だからこの小説は古典と呼べるものなんです。
──ブラジル文学というのは、やはり未知の世界です。何人かの作家を紹介していただけますか?
日本語で多くの作品が読めるのはまず、20世紀のブラジルの国民文学を代表するジョルジュ・アマードです。これは私が訳したものなのですが、『果てなき大地』(新潮社)は彼の最高傑作のひとつで、アマード自身のお気に入りの小説でもあります。また「ブラジル的」という意味では、『丁子と肉桂のガブリエラ』(尾崎直哉/訳 彩流社)をお勧めします。
これは1920年代のブラジルに港町を舞台にした群衆劇です。そこにガブリエラという魅力的な女性が登場して物語が展開するのですが、彼女は靴を履くのが嫌いで、すぐ裸足になってしまうような自由奔放な人物。結婚をするんですが、他の人とも恋愛をします。この自由な感じが、とてもブラジル的な小説です。
それから、これも私が訳したもので恐縮ですが、シコ・ブアルキが書いた『ブタペスト』(白水社)。シコ・ブアルキは、シンガーソングライターとしても有名ですが、ブラジルの20世紀を代表する文化人でもあります。主人公はゴーストライター。彼には日本とブタペストにそれぞれ恋人がいて、その往き来を描いた小説です。この作品にも境界を自由に往き来する「ブラジルらしさ」が見られますね。
ゴーストライターですので、言ってみればそれは仮面的な関係性を描いているとも言えるのですが、この仮面性というテーマもブラジルにはよくうかがわれるものです。やはりそのテーマで私の好きな小説に、ズルミーラ・ヒベイロ・タバーリスという作家の書いた『家族の宝石』(1990)があるのですが、仮面夫婦の姿が、偽のルビーの結婚指輪に重ねあわせられ、それを通して人間の欺瞞と偽装性が暴かれていきます。これはまだ日本では訳されていません。
それら以外に日本語で読めるものには、やはり20世紀の重要な作家であるギマランィス・ホーザやクラリッセ・リスペクトルの作品があります。でも、ブラジルの文学は、まだほとんど未紹介といっていいでしょう。現代には、ミルトン・ハトゥン、ベルナルド・カルヴァーリョ、フーベン・フォンセッカ、セルジオ・サンターナ、ルイス・フファットなど、優れた作家が多くいます。
そして、『ブラス・クーバスの死後の回想』を読み込んでから、これらの現代文学を読んでみると、境界のたゆたいや偽装性、ありのままの人間を認める姿、斜に構え、ずらす視線など、この小説に見られる特徴の多くが今もしっかりと息づいていることを感じます。
(聞き手/渡邉裕之・2012年6月 東京外国語大学キャンパスにて)