2012年9月14日、東京・赤坂のドイツ文化センターの図書館。連続講演「デュレマットの普遍----スイスから世界を見る」の第2回は、画家を目指していたこともあるスイスの作家デュレンマットが描いた絵を見るところから始まりました。
それはギリシャ神話に出てくる牛頭人身の怪物ミノタウロスと、それを閉じ込めていた迷宮を描いたもの。
今回の講演会のタイトルは、「迷宮としての世界----『トンネル』と『巫女の死』」。デュレンマットが書いた2篇の小説の背後にある「迷宮」について考えていく内容でした。
デュレンマットは、ギリシャ神話を創作の源泉の一つとしていました。この作家がミノタウロスの神話をどう解釈していたのか、『失脚/巫女の死」の翻訳者、増本浩子さんが紹介していきます。
「ミノタウロスは知性が劣っていた。そのためダイダロスが作った建物でしかない迷宮を、全世界だと誤認した。しかし、プラトンの洞窟の比喩が示すように、人間も結局はミノタウロスと同じように、限られた知力で世界を眺めているにすぎない」
つまり、デュレンマットは、人間理性というものは、世界を正しく理解するには不十分なものであると、とらえていたのです。
では、小説『トンネル』に不意に現れるトンネルは、何を表しているのでしょうか。主人公の太った青年は、プラトンやキルケゴールを勉強していた若きデュレンマットの姿だといわれています。その青年を乗せた列車が突き進んでいく出口を失ったトンネルは、ミノタウロスの迷宮やプラトンの洞窟と関連したものであり、哲学を学ぶなど、どんなことをしても本当の世界の姿を見ることができない人間の力の限界を示唆しているのでしょう。
次に増本さんは、迷宮と推理小説が、密接に結びついていることについて語りだしました。
『巫女の死』という作品は、ギリシャ悲劇『オイディプス王』をベースに書き上げられたものです。デュレンマットは、『オイディプス王』をとても気に入っていたといいます。理由の一つは、それが父親殺しの犯人を探す推理小説として読めるからでした。
デュレンマットは推理小説に執心した作家でした。それは何故でしょう。
その理由を、増本さんは『薔薇の名前』の作者としても知られるイタリアの哲学者ウンベルト・エーコが書いた推理小説をめぐるテクストを引用しつつ説明していきます。
それによれば、推理小説は、神を中心とした中世を越えて、人間理性、合理性を中心とした世界となった近代を象徴する文学ジャンルなのです。なぜなら犯罪を合理的に解明していく探偵は、医者や自然科学者、哲学者と同じ行為を行っているから。つまり、探偵も医者たちも仮説を立て、それを検証していくことによって、真実を解明する者たちなのです。
しかし、デュレンマットはこうした推理小説を決して肯定はしませんでした。
「謎としか思えない出来事を解明し、整合性のある世界を描く探偵の物語は、実は、人間には謎としか見えない出来事も、神の目から見ると筋が通っているという、あの中世の時代の物語と同じではないか」というのです。
ここには、人は世界の本当の姿を決して見ることが出来ないという作家の確たる思想があります。デュレンマットにとって、推理小説は、あの神話の迷宮と結びついているわけです。
『巫女の死』は、『オィディプス王』の謎に迫りつつ、遂には謎解きが出来ないということが書かれています。謎を安易に解決してしまう推理小説を批評した作品ともいえましょう。
増本さんはいいます。人間の力には限界があると、この作家は考えていた。しかし、ペシミズムに陥ることはなかった。世界は人間存在よりも常に大きく、歯がたたなくとも、よりよい世界にしていこうという努力をあきらめることはなかったと。
次回は10月5日。講演タイトルは「故障のドラマトゥルギー--『故障』と『失脚』」。デュレンマットの演劇論をめぐる講演です。非常に個性的なドラマトゥルギーを知ることができるでしょう、とても楽しみです。
[文 : 渡邉裕之・文筆家]
デュレンマットは独自の演劇論に基づいて、自作の戯曲のほとんどを喜劇と名づけたが、そのコンセプトは小説にも生かされている。デュレンマットの喜劇観を理解するのに特に重要な作品となっている『故障』を中心に、そのドラマトゥルギーについて考察する。
[増本浩子さんプロフィール] 1960年生まれ。神戸大学大学院人文学研究科教授。専門はドイツとスイスの現代文学・文化論。著書に『フリードリヒ・デュレンマットの喜劇』、共訳書に『ブレヒト 私の愛人』(ベアラウ)、『ドイツの宗教改革』(ブリックレ)、『ハルムスの世界』(ハルムス)など。
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