「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。[文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈今月の新刊〉
『ソクラテスの弁明』(プラトン 納富信留/訳)
『孤独な散歩者の夢想』(ルソー 永田千奈/訳)
『ねじの回転』(ジェイムズ 土屋政雄/訳)
9月の新刊紹介をするのに、ずいぶん日がたってしまいました。申し訳ありません。
この9月に出版された一冊目は『ソクラテスの弁明』(納富信留訳)、プラトンが書いた法廷弁論形式の作品。紀元前399年、ギリシャ・アテナイで行われたソクラテスを被告とした裁判を扱ったものです。
「ソクラテスは、ポリスの信ずる神々を信ぜず、別の新奇な神霊のようなもの(ダイモニア)を導入することのゆえに、不正を犯している。また、若者を堕落させることのゆえに、不正を犯している」。
ソクラテスは、このように告訴されていました。
アテナイの裁判では、まず告訴状を提出した者の告発がなされ、次にそれを受けて被告人による弁明が述べられたということです。本書は、その弁明の場を舞台として、プラトンがソクラテスの哲学を表現していくという作品です。
ソクラテスは、ご存知のように広場や宴席での対話の場を自己の思想がもっともよく駆動するステージとして考えていました。しかし、今回の場所はそれとは違う裁判という場、確かにこの哲学者も、いつもとは勝手が違い、時には戸惑いの表情も窺えます。そして結果的にソクラテスは有罪になってしまったわけですから、そこで展開された論理には、何らかの弱点が露呈されていたといってもいいでしょう。しかしプラトンはそれでも裁判というものを哲学者の思考を後世の人々に遺すのに適したメディアとして考え、『ソクラテスの弁明』を書き上げました。
この時代の裁判では、書記というものがいたのでしょうか。「速記」の起源を調べてみると紀元前400年代のギリシャの速記碑文が発見されているという記述が出てきますから、この裁判にもプラトンの弁明の言葉を記録する書記官の文書が残されていたのかもしれません。しかし、速記録があったとしても、プラトンは、自分の言葉でプラトンの思考の展開を遺しておきたかったのだと思います。
と、ここまで書いたところで、自分が、ギリシャ時代の裁判をうまくイメージできないことに気づきました。書記とか速記とか書いている時、現代の裁判所を想定してしまっている。
翻訳者の納富さんは「解説」で当時の裁判について説明をしています。それを理解し、本文を読んでみてもやはり自分は、『テルマエ・ロマエ』(ヤマザキマリ エンターブレイン)の主人公のようになってしまう! あの漫画は、ローマ時代の浴場設計を専門とする建築家が、現代日本の銭湯や家庭の風呂場に突如ワープしては、そこでドラマを起こし、また自分が生きている時代に戻っていくというものですが、私も読んでいるうちに、頭がワープというのかカーブというのか、現代の裁判所に立っているソクラテスを頭に描いているのです。
ここで痛感したのは、自分が現代日本で行われている裁判だけにとらわれていること、これとは違った、人が人を裁くという他の方法がまったく想像できないことでした。
恥ずかしいですが、異質の裁きの場というと、諸肌脱いで決め台詞をいう遠山の金さんのお白州しか浮かばない......後は『ヴェニスの商人』も含めて、そこでイメージしているのは、服装こそ変えていたとしても、ある一つの裁判所空間からの変形バージョンに過ぎない......情けない。
そういった自己確認をして本書を読んでみると、『ソクラテスの弁明』の弁明は、私なんかがすぐに考えてしまう最終口頭弁論とは違うことなのですね。
今、裁判を傍聴すれば、すぐにわかりますが、そこで語られる言葉は、現行の裁判制度にきっちりと象られたものです。こうした言葉と、本書のソクラテスの言葉は異質なはず。ギリシャ時代の裁判は制度が違うのですから。たとえば裁判員は500人、あるいはもっと多くの人数がいたというではないですか。
本書の魅力はもちろんソクラテス独自の思想展開です。もうひとつ、広場や宴席での対話で、もっともよく展開していくその思考システムが、裁判の場で軋みながらも動くていくこと、その有様をシャープに描くプラトンの言葉の魅力があげられます。
さらに、私が注目したいのが、私たちの裁判とは違った制度が描かれていること。ここから私たちは、裁判制度のもっと違うあり方を考えることもできるはずです。
そういえば、「ソクラテス裁判が再開、死後2500年に名誉回復」というニュースが最近ありました。
あのオナシス財団が、公聴会をアテネで今年主催したそうです。「欧州の高名な法律家および866人の一般市民が参加」し、「審判に参加した一般市民のうち584人は、ソクラテスを無罪だと判断し、282人が有罪だと判断した」とか。それでソクラテスは「死後2500年に名誉回復」になったのです。
866人の審判! ということは、当時の裁判制度で行ったということですね。
二冊目は、ルソーの『孤独な散歩者の夢想』(永田千奈訳)。これは裁判が舞台ではなく、きっかけとなって生まれたテクストとでもいうのでしょうか。1762年6月、パリの法廷は、この思想家の著書『エミール』を禁書にし、ルソーを捕らえ拘束し、パリ裁判所付属監獄に連行することを命じました。しかし、ルソーは逮捕を逃れます。本書は逃亡先のジュネーヴなどの土地を経て、パリに戻ってきたルソーの隠遁の日々から生まれたテクストです。
彼は毎日のように散歩をしていました。たとえばこんな風に。
「昨日、ビエーヴル川の岸に沿ってジャンティー方面に植物採集に行く途中、新しい大通りを歩いていたときのことだ。アンフェール通りの門が見えると、その手前で右折する。さらに、郊外のほうへと進み、フォンテーヌブロー街道を抜けてビエーヴル川に沿って広がる丘陵地帯を登って行った」
このように歩きながら、ルソーは考えを巡らします。たとえば、この道筋を自分がどうしてこう何度も繰り返して歩くのか、特に、わざわざ回り道をしている理由を考える。結果、理由は最近顔見知りになったある少年を避けてのことだったことに気づくのです。
少年とたわいのないおしゃべりをするのは、ルソーにとってはとても幸福な一時でした。しかし、あの裁判から始まった、世界から自分が迫害されているという強迫観念は、このささやかな幸福にも、陰りを見いだしてしまう。普通に楽しいことが急に嘘くさく思われ、少年に会うことが反対に苦痛となり、わざと遠回りしてしまうのでした。このあたりから幸福を享受することについての考察が始まっていきます。
本書は、このように散策と考察が入り交じった中で生まれたテクストです。そして舞台はパリ。
さてここで、パリの交通事情について書こうと思います。ご存知のように、パリは、『孤独な散歩者の夢想』から『パサージュ論』(ベンヤミン)、『ナジャ』(ブルトン)など、多くの「散策+考察作品」を生み出してきた遊歩都市です。
そして本書が書かれた1770年代から数えれば約240年間、この都市の交通形態も大きく変わっています。乗り物の変化に影響され、散歩の質も変化していきます。そうすれば「散策+考察作品」の質も当然変わってくるでしょう。
実は2000年代に入って、パリの交通事情は大きく変化してきています。
話題はいきなり自転車。2001年になってパリの自転車専用道路が全長250kmにも達したのでした! 1995年当時にはたった8kmしかなかったといいますから、パリが今、自転車というものを非常に重要視していることがわかります。さらにパリ市はレンタサイクル「ヴェリブ」を2007年に設置。これは小規模で行われていたレンタサイクルシステムをパリ全体にネットワーク化したものです(特徴としては、24時間営業、借り出しと異なる場所への返却可などがあげられる)。
パリ市は自転車だけに力を入れているわけではありません。1930年代に一度全廃されていたトラム(路面電車)を約70年ぶりに復活させました。
このあたりの話は、交通ジャーナリストの森口将之さんが書いたものから学んだものです。森口さんは、『パリ流 環境社会への挑戦』(鹿島出版会)という著作があり、パリの交通改革について大変詳しい方。
その本を読んだり、実際にお会いし話をしてわかったことは、パリは21世紀に入って、自転車、トラム、そしてセーヌを走る水上バス、電気自動車のシェアリングシステムの4本柱で、現在のガソリン自動車を中心とした交通システムから脱却しようとしていることでした。
こうした大改革の要因としては、環境問題、それから高齢者の問題が大きいようです。老人になると自動車の運転は非常に難しくなりますから。
何にしてもパリの交通形態はこれから大きく変化し、それに対応して「散策+考察作品」も変質していくでしょう。
すでに今、21世紀のジャン・ジャック・ルソーともいうべき人物が、『孤独な自転車乗りの夢想』でも書いている気がします。
そして三冊目は、恐怖小説の古典『ねじの回転』(ジェイムズ著 土屋政雄訳)。
人が恐怖や怪異を充分に感じとるには、小説はあまりにクールなメディアなのでしょうか。こうした物語は、まず小説というよりは、「語り」を強く読者に意識させスタートすることが多いですね。
本作も、クリスマスイブに古い屋敷で開かれたパーティーで、ダグラスという人物が怪奇譚を語りだすところから始まります。
といっても話はダグラスが経験したことではなく、彼の知人の女性家庭教師が書いた手記の朗読でした。しかも、その手記はオリジナルではなく、ダグラスが書き写したもの。
小説というシステムがすぐに動きださないように、麻薬を3本くらい打っている感じがしますね。冒頭いきなりこのくらいやられると、小説はおかしくなってきます。それから、幽霊が出てきてもちっともおかしくない形の「語り」が本格的に始まるのです。
「語り」を上手に使った恐怖小説はたくさんあると思いますが、これが「古典」の技というのでしょうか、小説の狂わせ方が相当巧妙です。
どうしてジェイムズという作家がこういうことができたのか? それは小説というものを冷静に見ていたからだと思います。
ある小説の形式に従順に従うことと、優れた人間観察ができるが故に小説の限界を知っていること、つまり小説への信奉と見限りのバランスをよく保っていたからでしょう。
小説への従属は、古びた屋敷、そこに隠された過去、その舞台にやってくる神経過敏な女性家庭教師といった、私たちが小説や映画で何度も見てきたような小説の設定によく表れています。ゴシック小説というのでしょうか、あるパターンに従うことの魅力がそこにあります。
そして設定が書き割りとも感じさせるワンパターンにも関わらず、登場人物がけっこう深い彩りで描き込まれています。たとえば主人公の女性教師の正義感と、その裏にある抑圧された性意識......ジェイムズの人間観察の力がよくわかります。
『ねじの回転』は、小説のことを冷徹な目で見ていた作家が、冒頭から小説の機能を狂わせるところから始まります。調子がおかしくなった小説は、個人の作家の手からふと離れて、人が潜在的に共有している物語へと近づきだす。その意図しなかった動きだしと、作家が周到に用意した「幽霊」や「妖怪」の登場のタイミングが、ぴったりあうと非常に怖い! 本作では、それが実際に行われています。
既刊本は、『海に住む少女』という短編小説集を紹介しましょう。作者はジュール・シュペルヴィエルというウルグアイで生まれたフランス人作家。翻訳をしたのは永田千奈さん。
非常に透明感のある幻想世界が次々と展開される短編集だ。その中の『セーヌ河の名なし娘』は、河に身投げをして死んでしまった少女が、河から海へと流れていく様子を描いたもの。少女らしい恥じらいとエゴで水中世界に反応していく様子がとても愛くるしい。
海に着くと、そこには水死した人たちがいて水の底での会話が始まる。そこで少女は「セーヌ河の名なし娘」と呼ばれるようになる。海の中にいる人たちは、みな裸だ。その中で彼女だけは服を脱ごうとしない。少女らしい恥じらいとエゴによって。
ある日、海の中の人たちの一人、裸のおばさんが「さっさと服を脱ぎなさい!」と怒りだす。少女は逃げ出す。海の底から。
その様子はこのように描かれる。
「《名なし娘》に可愛いがられていた魚たちは、すぐに彼女についてゆくことにしました。そう、魚たちも、彼女が水面に近づくにつれて息を詰まらせ、一緒に死んでいったのです」
これで終わり。
この作家を紹介するのに、訳者の永田さんは、「フランス版・宮沢賢治」という言葉を使っている。常に悲しみを伴った幻想世界が展開される物語は、確かに賢治に似ている。私は何人かの女性漫画家の名前を思い出しました。
たとえば市川春子さん。『虫と歌』(講談社)という作品集では、最先端のバイオ技術で植物や昆虫の細胞からつくられた者と、私たちヒトとの交流が描かれる。幸福を共有する日々は、しかし続かない。その者たちは、やはり花のように夏の虫のように実に儚い。死んでしまう。ヒトが一人取り残されて物語は終わります。
儚い生物たちと一緒に過ごす日々を描く市川春子さんの漫画が好きなら、幻想世界の中の「日常」を描くシュペルヴィエルの小説も気に入ってくれるでしょう。
それから今日マチ子さんの漫画にも共振するところが。そういえばこの10月に「女の子のためのこわ〜い文芸誌」というキャッチコピーを付して『Mei』(メディアファクトリー)という雑誌が創刊された。その中に彼女が「door #1堅信礼」という作品を載せている。
ボートに乗った女学生が、水上に立っている不思議なドアに遭遇する。その扉を開けると教会が見えて、そこからキリスト教風の儀式が始まる。最後は誰も乗っていないボートが水辺に浮かんでいるところで終わる漫画だ。これなど、この短編集の表題作『海に住む少女』とものすごく世界が似ています。
シュペルヴィエルのこの作品は、大西洋に浮かぶ小さな街に住んでいる少女の物語だ。島ではない、一本の道路が海に浮かんでいて、そこに住宅と商店が立っている不思議な街だ。
そこに住むたった一人の少女は、どのように暮らしているのか? 「食料は棚のなかに、自然と湧いてくるのです」
不思議だけど、たんたんとした日々が描写されていく。時には特別なことも起きる。写真アルバムの発見。そこには自分とそっくりな女の子が写っている。また水兵の服を着た男の人。気になっているのだけど、その人たちが誰かは少女にはわからない。
ある日、一隻の貨物船が沖を通り過ぎていく。その船には物思いにふける一人の水夫が乗っている。その水夫と、海に住む少女は出会えない。会えないけれど作家は言葉で結びつけてあげる。少女が海の上に住んでる理由が語られるのだ。物語は終わり、読者は、とりかえしのつかない何かを知ってしまって哀しくなる。
この『海に住む少女』、今日マチ子さんに描いて欲しい。
それから、先に触れた雑誌『Mei』は、街の話題としても注目したい。
作家の加門七海さんや東直子さんらが小説を描き、山岸凉子さん、近藤ようこさんの漫画、そして闇歩きのオーソリティー、中野純さんがナイトハイクについて書く記事が掲載されている雑誌で、テーマは怪談だ。
先述した『ねじの回転』の紹介で、私は恐怖や怪異を充分に感じとってもらう小説では、まず「語り」を強く意識させるものが多いと書いたけれど、怪談をテーマにしたこの雑誌も当然、「語り」というものが強調されている。
「語り」で大事なのは、どんな場でどういった人が語ったのかということだが、興味深いのは、その「語り」に今という時代が色濃く浮かびあがってしまうところだ。
この雑誌の「語り」にも今が出ている。本格的な闇を失ってしまった都市空間、ペット霊園とそこに訪れる人々、オカルトマニアたちの交流の仕方......語られている中心の幽霊や妖怪は時代を越えてほとんど同じだが、反対にそのまわりには今という時代が浮遊する、そこが面白い。