個人への自由への干渉はどこまで許されるのか。反対意見はなぜ尊重されなければならないのか。こうした問題をじっくり考察しているのがミルの『自由論』。
情報化社会の渦の中で、自分とまったく違った意見の持ち主や、とんでもないことをしている人たちに出会ったりすることが多い私たち。カーッときて何か主張をしようとする前に、少し頭を冷やすためにも読んでおきたい......だけでなく、市民社会を生きるための基本的考えを身につけるためにも読んでおきたい本です。
今回の「あとがきのあとがき」は、『自由論』を訳した斉藤悦則さんに登場していただきました。現代の日本で、ミルの文章がどう読まれるかなどの話について聞きました。また、斉藤さんは、アナキズムの思想家プルードンの研究者でもあります。そこでアナキズムや、あの坂口恭平さんなどについても語ってもらいました。
------とにかく、この本は読みやすい。そのことに感銘しました。
斉藤 校閲の方が「これは、中学生でも読める」といってくれたそうです。その話を聞いた時、「よかった〜」と思いました。それで私は「あとがき」で次のような文章を載せたんですよ。
「私はますますミルの『自由論』をなるべく多くのかたに読んでもらいたい。そう願います。若いひとびと、高校生にも、できれば中学生にも読んでもらいたい」
校閲者の言葉を聞いて、自信をもってこの言葉を書くことができました。
私も研究者ですから学術書を書いていますが、編集者からチェックを受けたことなんてほとんどなかった(笑)。でも、この古典新訳文庫では、普通に読める日本語になっているかどうか、一つ一つチェックされました。それですごくよくなっていったんです。ですから、チェックの一つ一つに感動していました(笑)、さすがこの文庫だなって。結果、普通の人が普通に読んで意味がわかる本になったと思います。
------著者であるミル自身はどうなんでしょう。彼は普通の人に向かって『自由論』を書いていたのですか?
斉藤 いや、残念ながら知識人相手に書いています。頭のいい人に向かって、「もう一度、自由の問題を考えよう」といっている本です。もっといってしまうなら、「民衆はバカだから彼等が自由になっていくと、とんでもない方向に流れていってしまう。民衆を指導するあなたたち知識人は、もっと自由について意識した方がいい」とメッセージしているんですね。ミルは上から目線です(笑)。だから『自由論』は啓蒙書ではありません。
そして、ミルは文章を難しく書くところがある。頭がいい人だから、自分では意識していないのだけど、文章が高度になってしまうんですね。よく『自由論』を英語の先生たちが教科書で使っているのですが、これは読みやすいからではありません。難しく書かれているからです。英語の先生って嫌ですね〜(笑)。
私は、古典新訳文庫でマルサスの『人口論』も訳しましたが、彼の言葉は難解じゃない。なぜなら、自分の考え方をなるべく多くの一般の人に読んで欲しいと思って書いた本だからです。マルサスの本に比べると、ミルの文章はやっぱり難しいですね。
------斉藤さんは、「あとがき」で「ミルの思想こそが、いまという時代においてはきわめて『とんがっている』、と『自由論』を訳しながら私は感じとりました」と書いています。どう「とんがって」いるんでしょう?
斉藤 大阪市長の橋下徹さんが「君が代」を唄わない人間をチェックするといったり、その後の維新の会の動き、それからネットを見ていくと、やたら右翼ぽい発言をしている人が目立ちますよね。こうした世の中だと、今、「思想信条の自由を守る権利」なんてことを主張する人は、すごい変人扱いされてしまうのではないかと思います。普通に「自由」を語ることが、今や「とんがっている奴なんだ」といわれてしまうのです。
ミルが『自由論』で語っていることは、決して過激な思想ではありません。個人に於ける自由への干渉はどこまで許されるのかといったことを考えようといった、まあ、「ゆるい」感じのものですよ。それが今では、まわりが酷くなったから、その「ゆるさ」が一番「とんがっている」ことに見えてしまう。
そういう意味で「ミルの思想こそが、いまという時代においてはきわめて『とんがっている』」と書いたんですね。
------そういうことでいえば、ミルが本書で主張している「われわれはなるべく変わった人になるのが望ましい」という言葉は、堅苦しくなってきた世の中のことを考えると、充分に「とんがって」いますね。しかし、ミルがこういうことをいった人だとは思っていませんでした。
斉藤 ミルは本書で盛んに「変わった人であれ、個性的であれ」といっているんだけど、今まで『自由論』を読む人たちは、その主張に注目しなかった。注目しないような仕掛けがあったんじゃないのかな。その仕掛けの一つは翻訳に関わっていることだと思うので、私は「個性的であれ」を浮き彫りにするように訳し、「あとがき」でもそこを読んで下さいと書いたんです。
------しかし今の日本、「もっと変な人になっていいよ」なんて、とてもいいづらい世の中になっていますね。どうして、こんなに締め付けが厳しくなってきてしまったんでしょう?
斉藤 「認知的不協和」という言葉が社会学にはあります。まわりにいる人が自分の気持ちに対して支持してくれる時、人はうれしがりますが、自分とは違った考えがあることを知ると不快感を示す。その時の状態を認知的不協和といいます。人はその状態にずっといることに耐えられないので、まわりの人の意見に同調するようになるんですね。
科学技術の発達、たとえば通信・交通の発達によって社会が前進していくなかで、思想や言論はもっと自由になっていくと期待した人もいましたが、現実は逆になっています。通信技術の発達は、対話を活発にさせるのですが、反面そのことによって認知不協和になる機会が多くなる。そして最終的に同調圧力が強くなるという結果だけが残ることになるんですね。
------同調圧力がますます強くなってきて息苦しい世界に、風穴を開けようとしているアーティストがいます。坂口恭平さんといって、2011年、東日本大震災と原発事故に対応する形で熊本に「新政府」を樹立、「初代内閣総理大臣」に就任した人です。独立国家づくりというパフォーマンスを通して、坂口さんは、お金や土地、仕事などに関する私たちの固定観念を揺さぶってくるんですね。その一つの実践として、彼は『独立国家のつくりかた』(講談社現代新書)という本を書いた。お金や土地などについて、とにかく自由に語っていく本です。今回、斉藤さんに読んでもらったんですが、感想はいかがですか?
斉藤 すごく面白かった! 面白いけど坂口さんとはお友達にはなりたくないなあ(笑)。
なぜかというと、彼はけっこう優秀で、写真も絵も講演も執筆も唄もなんでも上手にできちゃう。路上で唄いだせば日銭1万円は稼ぐというんでしょ。そんなに優れてなくて、もうちょっと普通で変な感じの人だったら、もっとアクセスしやすいのにと思いました(笑)。
------斉藤さんは、プルードンというフランスの19世紀に活躍したアナキズムの思想家の研究をしてきた方でもあります。その斉藤さんから見て、坂口さんの発言はいかがですか?
斉藤 「国ってなんだ?」「所有ってなんだ?」こういった根源的な問いかけを坂口さんはしているわけだけど、これはアナキストがずっと前からやっていることなんです。でも彼が偉いのは自分の頭で考えていることですね。ヨーロッパの現代のアナキストなんて、プルードンを含む先輩たちの文献を引用して、その権威の下、主張してしまうからね。坂口さんは誰の文献も利用せずにやっている。これは正しいですね。......しかし、話に聞くと坂口さんは大杉栄さんの唄を唄ったりしているんですってね(「魔子よ魔子よ」という大杉の詩を唄った作品<*>)。これは気になるなあ〜。大杉栄はアナキズムの世界ではビッグネームですよ。坂口さんはすべて自前でやっているんだから、私なんかこういうこともダメじゃないかと思ってしまいますね。
ちょっと話を変えるとですね、私は鹿児島の大学をやめて東京に戻ってきて、最近、哲学カフェに時々顔を出しています。これは哲学的な議論をするための公開討論会で、いろんな人が喫茶店なんかに集まって自由に話合うというものなんです。鹿児島でもちょっと出ていたことがあるんですけど、大学の先生とかが来ると、やっぱり先生は偉そうに喋るんだよね(笑)。私もセンセーだけどそれが嫌で、こっちの哲学カフェに参加する時は、自分がどんな職業だったかなんて隠しているし、話し方も気をつけています。なるべく偉い哲学者の名前なんて出さないで、哲学的な言葉も使わずに話すようにしています。哲学の言葉を使って喋っていくと、それらしく着地するようなところがあるじゃないですか。普通の言葉で哲学するとどうなるか。今、私にとって哲学カフェは修行の場なんですね。
------本や昔の偉い人の言葉を引用せず、自分の頭だけで考えていくと、一種アナキズムになるんでしょうか? 坂口さんの本を読んでいると、そんなふうに考えてしまいます。
斉藤 いや、そうとはいえない。
坂口恭平さんは、子どもの頃からの体験から「土地は何か」「家は何か」という根本的疑問を社会に投げかけることをやっています。確かにメンタリティーはアナキズムです。それからプルードンも自分が生きている場所から考えていました。プルードンは超ビンボーだったんです。貧しい職人の家に生まれ、普通の靴が買えないから木靴を履くような生活をしていました。そうした中で、なんで貧乏人が一生懸命に働いても金持ちになれないのかと考えて、そしてこの社会をひっくり返さなければならないというアナキズム思想を考えだします。
ここから次の段階の話をしますね。一人の人間が自分の頭だけで考えたアナキズムがアナキズムとして実現化するということは難しいという話です。この政府をひっくり返そう、それを実現化するための運動体になると、どうしてもマルクス主義みたいに軍隊的なものが必要になってくる。司令部があってそこから指令を発していくという組織体が勝つと人は考えるからです。
だからファシズムもよく見ていくと、アナキストたちのグループから生まれたものもけっこうあるんですよ。自分たちのコミュニティを守る愛郷主義、このあたりはアナキズムと非常に近いものです。それが愛国主義になって、「金持ちにはユダヤ人が多い、ではユダヤ人を撲滅せよ!」といったファシズムに変貌していく。フランスにはプルードン協会が母体になっているファシズムのグループなんていうのもありますからね。
------う〜ん、現実は難しいですね......では最後に、斉藤さんのこれからのお仕事の予定を教えて下さい。
斉藤 プルードンの『貧困の哲学』を訳しています。マルクスによってボロクソにけなされたことで有名な本ですが、ちゃんと読めばプルードンの「大人ぶり」がよくわかる名著です。社会主義や共産主義は社会の「悪」をなくそうとするが、悪は善とセットなのです。悪だけをなくすわけにはいかない。社会を良くしようとする運動はかならず否定面を生み、その否定はさらにつぎの否定を生む。だから、われわれは均衡をもとめて常に動き続けるしかない。歩行とは体のバランスをくずしながら足を前に出しつづけること、という話に似ています。『貧困の哲学』は上下二巻でけっこう大著ですが、プルードンのうねるようなレトリックは当時のひとびとをうならせ、本もよく売れたことが、読めば納得してもらえるでしょう。翻訳は今年、平凡社から出る予定です。
------お話をありがとうございました。
(『自由論』の話題をもう一つ。昨年「光文社古典新訳文庫感想文コンクール2012」の入賞者が決定されたたのですが、「大学生・一般部門」の最優秀賞に朝守双葉さんという方が書いた『自由論』についての感想文が選ばれました。これは、福島第一原発事故以降、一人の主婦が放射能から自分や家族を守るために考え行動する時に生まれる様々な問題を、『自由論』を通して考えていくというものでした。このテクストに表されている、思想や哲学の古典を読み込んでいく真剣な態度、そうしなければならない現代日本社会の過酷さは、きっと心を揺さぶるはず。ぜひ、読んでみて下さい)
(聞き手/ 渡邉裕之)