2013.02.14

「新・古典座」通い — vol.16 2013年1月

「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。[文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈今月の新刊〉
『ガリレオの生涯』(ブレヒト 谷川道子/訳)

ブレヒトとスチームパンクのドキュメンタリー

1月の新刊は、ブレヒトの『ガリレオの生涯』。

ガリレオの生涯地動説を唱えていたガリレオは、教会権力に屈服し自説を撤回する。しかし、その転向までの苦しみ悩む姿を描くドラマではない。心理的な言葉を聴くのではなく、ガリレオとそれを取り囲む人々の会話と身振りを観察していく演劇だ。

「スチームパンク」というSFのジャンルがある。歴史改変ものファンタジーで、主な舞台はヴィクトリア朝の英国か西部開拓時代米国。特徴は、時代錯誤的なテクノロジーが登場するところ。たとえば蒸気機関で駆動するコンピュータなどだ。

この『ガリレオの生涯』も、スチームパンクのように、17世紀初頭のイタリアで作られた、「蒸気エンジンで動く映像機器」で記録された、ガリレオをテーマにしたドキュメンタリー作品にも思える。

時代が錯綜している感じは、作者ブレヒトが、ガリレオと20世紀のアインシュタインを重ね、さらに原子爆弾も意識して戯曲を書いているからだろう。

また「映像機器で記録されたように思える演劇」というテクノロジー感覚は、一つに、ブレヒトの演劇が、俳優の演技に対して観客が、熱く思い入れをもつのではなく、クールに観察していくことをポイントに成立しているからだ。

もう一つの理由としては、主人公ガリレオが行っていたのが、実験科学だから。それまでの科学者たち、たとえばコペルニクスなどとは違って、ガリレオは実験ができた。そして実験は、階級と関係なく誰もが体験、観測ができるものだった。ブレヒトは観測できることの革命性を重視し、作品も観察という方法をポイントにしている。テーマと方法論を重ねているのだ。

だから転向の際の心理的なドラマではなく、ガリレオの人生、その時々の彼の言動と身振りが示される、また彼を取り囲む学者仲間、僧侶、宮廷学者が、ガリレオに観察された者として登場する。

「観察する演劇」といっても、退屈な前衛劇ではない。ブレヒトは俳優の演技に魅了されてしまう観客の快楽を知り抜いた演劇のプロだ。「第10景」、ガリレオの学説が民衆の間に広がっていくのを示すカーニバルの場面なんていうのは、実に職人的に作っている。謝肉祭のパレードを待っている人々の前に芸人の家族がやってきて、地動説をテーマにした大道芸を見せる。この内容が実に楽しげで、同時に危険な感じがしてイイ。学説が一人歩きして、革命的概念、あるいはその場限りの興奮剤になっていく岐路を、軽演劇として見せるところなんて、ブレヒトの得意技ではないか。

また、ガリレオが「食い道楽」として設定されているところも楽しい。転向の理由を自身は「肉体的な苦痛が恐かったからだ」とかいっているが、食の快楽が関わっているのが匂う構成なのだ。「第14景」は、幽閉されているガリレオが弟子であるアンドレアに、最後のメッセージを送る感動的な場面なのだが、ここでは「贈られたガチョウ」が奇妙な余韻を残す感じで使われる。感動的な場面であるとともに、「食道楽は権力に弱い」という観察結果が示される作りだ。ブレヒト劇っていうのは、本当に独特な質感だ。

さて、少し話題を変える。ドキュメンタリー映像ということに触れたので、テレビドキュメンタリーを巡るドキュメンタリー作品を紹介したい。『あの時だったかもしれない』(是枝裕和監督 BS-i ,TBS  2008年)

テレビの制作会社テレビマンユニオンのディレクターだった村木良彦と萩元晴彦のTBS時代の仕事を追った作品。これが素晴らしいテレビ論であり時間論となっている。現在のテレビでは捉えることができない時間感覚や日本人の顔を見ることができる。また、テレビ構成者としての寺山修司の仕事も確認できる。これもスゴイ。テレビから流れる寺山の言葉が素敵だ。おヒマな時にどうぞ。

テレビマンユニオンからブレヒトに話を戻そう。

この本の魅力は、なんといってもブレヒト独自の演劇構成力だが、それともうひとつ翻訳をした谷川道子さんの「解説」と「あとがき」がある。実に興味深い。

「解説」のタイトルは「ガリレオ/ブレヒト/アインシュタイン」。内容は、この戯曲が書かれたプロセスと作品の意味を、世界情勢の変転の中で移動するブレヒトと、そしてアインシュタイン、彼が生み出すきっかけを作ってしまった原爆と結びつけながら語っていくというもの。さらに「フクシマ原発事故」を踏まえながら、ブレヒトが構想したにも拘らず、その死によって遂に書くことができなかった『アインシュタインの生涯』についても谷川さんは書いている。

また「あとがき」では、日本の戦後演劇史の中のブレヒト受容と、原子力問題を扱った日本の演劇作品について紹介している。特に後者は、重要な視点だ。

 

この「解説」と「あとがき」については、もっと知りたいことがあるので、谷川さんにインタビューを行おうと考えています。そして本サイトの連載コラム「あとがきのあとがき」にUPする予定だ。よろしくお願いします。

映画『うたかたの日々』の予告編チェック!

既刊本のパートは、ボリス・ヴィアンの小説『うたかたの日々』(野崎歓/訳)について。古典新訳文庫の「傭兵編集者」O氏もtweetしていたが、本書を原作とする映画の予告編が最近公開されたからだ。

この連載の第一回で紹介した、フランスの監督ミシェル・ゴンドリーによる作品だ。原稿を書いた2011年秋の頃は、予定の情報に過ぎなかったが、しっかり製作されたのだ。

見ていただきたい。非常に興味深い映像です。

小説を読んだ人は、主人公の青年コランとその恋人クロエのパーティでの出会い、最初のデート、奇想天外な結婚式などの場面を確認できるだろう。かなり作り込んだ映像だ。クロエ役の女優、オドレィ・トトゥが主演した「アメリ」(ジャン=ピエール・ジュネ監督 2001年)もこうした人工的な味わいを押し出した映画でしたね。

この予告編で興味深いと思ったのは、映像の要所に登場する黒人の顔や肉体、その身振りだ。たとえば最初の方、パリの住宅の屋根が映るシーンで、黒人の顔が非常に印象的に映し出されている。

ボリス・ヴィアンにとって黒人は重要な存在だ。『うたかたの日々』の映像化で、ポイントになるのは彼等の身体をどう扱うかということだろう。

そういえば、この連載第二回で、パリという都市が備えている黒人文化への敬愛の精神、それを体現する人、ボリス・ヴィアンについて、レゲエ専門の音楽ライターの鈴木孝弥さんに語ってもらった。

ヴィアンはレコードに付いている解説を多く書いていたが、それを集めた『ボリス・ヴィアンのジャズ入門』(シンコーミュージック・エンターテイメント) を、鈴木さんは翻訳している。

アメリカで生まれた黒人音楽ジャズが、人種差別によって自由な表現を奪われていること、そのことに対して鋭敏に反応したヴィアン、それから彼が活動していた黒人音楽の出力装置としてのパリについての鈴木さんの話は実に興味深い。鈴木孝弥インタビューは、私のブログで読んでみて下さい。

それと、この予告編で気になったのは、コランの友人のシック役の俳優の顔だった。シックというのは、サルトルをカリカチュアしたジャン=ソール・パルトルという哲学者マニアの青年で、この映像でもジャン=ソール・パルトルのポートレートが載っている表紙の本をもって登場する。そのシックの顔なのだが、ものすごく短いカットなのでしっかり確認できないのだが、斜視の人のように見える。サルトルの顔の特徴はやはりあの斜視だ。ミシェル・ゴンドリーはそれを体現している俳優を選んだのだろうか。

先の黒人の扱い方もそうだが、劇映画にとって重要なのは登場人物たちの顔だ。さらに眼は、映画のドラマトゥルギーをつくりだす最も大切な部位だ。斜視が気になるね。

と、ここまで書いてきたが、予告編と本編はまったく別な映像作品だ(予告編にこそ映画の理想的姿があるという人もいる)。黒人の姿も斜視の俳優も本編ではまた違った扱いで編集されているかもしれない。......それから予告編を見て、もうひとつ思ったこと、映像の感覚がジャズ的でないのが、ちょっと心配なのだが......本編が公開されたら、この映画についてしっかり書いてみようと思う。

それから鈴木孝弥さんが翻訳した本が最近出版された。『コンバ』(エディシオンうから)。パリのラジオの女性パーソナリティが書いた21世紀型の新しい社会運動と暮らしのカタログだ。

ガリレオの生涯

ガリレオの生涯

  • ブレヒト/谷川道子 訳
  • 定価(本体1048円+税)
  • ISBN:75264-4
  • 発売日:2013.1.10
うたかたの日々

うたかたの日々

  • ヴィアン/野崎 歓 訳
  • 定価(本体914円+税)
  • ISBN:75220-0
  • 発売日:2011.9.13