チェーホフ最晩年の戯曲『桜の園』が収録されている『桜の園/プロポーズ/熊』。翻訳をしたのは浦雅春さん。浦さんは今年の3月、長年に渡って授業を行っていた東京大学を退官されました。
インタビューは、その3月、最後の授業も終わり、あとは研究室の後片付けを残すのみという時に、東大駒場の研究室にお邪魔し行われました。
『桜の園』の魅力をお聞きする中で、チェーホフの独特な言葉の使い方、それがどうして行われるようになったのか、その理由が語られていきます。......そして最後は、「浦BAR」の話に。浦BAR? 最後に語っていただきますので、お楽しみに。
------浦さんは、「訳者あとがき」で「大学院でチェーホフを研究していたときも、戯曲はほとんど読んでいなかった。むしろ敬遠していた。苦手だったのである」と書いています。そんなに苦手だったのですか?
浦 苦手でしたね〜。僕は大学院は早稲田で、ロシア演劇が専門の野崎韶夫さんに指導してもらいました。その野崎さんが、もう40年も前、河出書房で出ることになった「ゴーゴリ全集」の戯曲の巻を担当したんです。その時に、先生から下訳をやってみないかと、声をかけてもらいました。翻訳はやってみたかったので歓んで行い、その原稿を野崎さんに渡したんですね。それからしばらくして、本が出来上がった時に、先生にこういわれたんです。「結局、君の訳は使わなかったけれど、これでも読んで勉強しなさい」。その本を渡されたんですよ、まさにトホホです(笑)。
------といいつつも、浦さんはチェーホフの四つの代表的戯曲『かもめ』『ワーニャ伯父さん』、『三人姉妹』、そして『桜の園』を訳しました。苦手だった芝居の翻訳をするようになったきっかけは何だったのでしょう?
浦 実は、この古典新訳文庫の仕事です。僕はゴーゴリの『鼻/外套/査察官』を翻訳をしましたが、この『査察官』は戯曲なんですね。小説と戯曲が一緒になっている本だったところがよかったのでしょう、小説の中の会話の訳の流れで、戯曲もできてしまった。『鼻』の登場人物が話す言葉を、落語の大旦那の口調のような日本語にしたのですが、その感覚で台詞も訳せたんです。これがきっかけで、チェーホフの芝居も手がけるようになりました。
------訳してみた『桜の園』の魅力を教えて下さい。
浦 19世紀に生まれ20世紀初頭に死んだチェーホフ、しかし彼は今に通じる作家です。彼は、我々が現在抱えているような不安、寄る辺のない気持ちを戯曲の中で書くことができた。その四つの戯曲の中で『桜の園』は一番ぶっ飛んでいる。そこが魅力ですね。
------ぶっ飛んでいる?
浦 言葉のバラバラさが極まっています。他の作品と比べてみると、たとえば『ワーニャ伯父さん』なら、最後にワーニャを慰めるような言葉がある。そこにいきつくまでに繋がっていく台詞が戯曲の中にちりばめられていますが、この『桜の園』には、ほとんどない。言葉がバラバラに置かれているような印象です。それだから最後の四幕目なんか、これが必要なのかと思えてしまう。『かもめ』の最終幕では主人公が自殺する、『三人姉妹』ではみんなが去った後に、健気に生きていきましょうという感じで終わる、そして『ワーニャ伯父さん』の最後では、地獄のような日々を過ごさなければいけないけど、先にいったような慰めの言葉が出てくる、つまり意味をもって終わっているんですね。しかし『桜の園』の第四幕はなんだかとってつけたようで、三幕で終わっていてもよいのではとも思えてしまう。実はこれも、チェーホフの言葉のバラバラさのためです。
------言葉のバラバラさについて、もう少し教えて下さい。
浦 並列的思考というのかな、映画でいえば、風景や人物など、あまり意味のないカットが見境もなく並べられるような仕方ですね。言葉でいうなら、子どもの話みたいな感じです。子どもに「今日、何があった?」と聞くと、「朝起きて、歯を磨いて、学校に行って」という話をするじゃないですか。ただ事実が並べられていて、どこが中心かわからない。そんな感じの言葉です。
そして『桜の園』は、この中心のない、並列思考が極まっている作品なのです。 普通、物語を書く人間は、あるテーマを増幅させるために、この人物とこの事件を繋げておき、そこで伏線をおこうとしますが、ある時期のチェーホフからはそれがない。関連のもたない人物や事件をべたに並べて置いていく。それが、現実の中心をもたない脈絡のないリアルな世界をかえってよく写しとる。だから魅力的なんです。
------脈絡のないバラバラの世界を描くとなると、登場人物たちの存在感も随分違ってくるんでしょうね。たとえば主人公がいなくなるのでは。なぜなら、主人公が物語に必要なのは、いくつかのバラバラの出来事が主人公の運命や心情を通して関係づけられるからです。
浦 そうです。チェーホフには主人公が必要でなくなる。ある時期から彼は、中心人物がいない作品を書き出します。そのきっかけとなったのが、1890年のサハリンへの旅でした。サハリンは、政治犯や思想犯、それから殺人、強盗、放火の罪を犯した人間たちが収容される島。そこで彼は実態調査をするのですが、サハリンで根源的な転機を迎えます。
彼はその前に、文学的な危機に陥っていました。『イワーノフ』という戯曲を1887年に書き、劇場で一度上演するんだけど、納得がいかず1889年まで何度も手を入れています。
イワーノフという主人公がいかに悲劇的なのか、その苦しい内面を伝えようとするのだけれど、なかなかうまくいかない。
混迷に陥った背景には、文学者としての自意識の変化がありました。
ちょっと話を変えます。井上ひさしさんが、どうして喜劇を書くのかという質問に対してこんなことを語っています。「小説は大江健三郎という天才に任せよう、同じ世代の者がもう小説をやってもしょうがない」。
実は、チェーホフも同じようなことを考えていたんだと思う。1860年に生まれた彼が小説を書きたいと思っていた時期は、それこそドストエフスキーを筆頭に優れた文学者がたくさんいた。そんなロシアの片隅で、文学をきちんとやろうという気持ちは、チェーホフには最初からなかったと思います。それこそ「同じようなことをしても歯が立たない」という心境だったでしょう。
しかし、チェーホフが作家デビューした1880年代は、実はロシア文学の流れでいうと、「空白の時代」なんです。81年にはドストエフスキーが亡くなり、ツルゲーネフは生きているけれどほとんど書いていない、トルストイに至っては、文学なんてやってられるかと百姓になっている時代です。
ところが、「大江さんに隠れている井上」(笑)みたいな気持ちでいたのに、本格的に書き出したら、自分の目の前に走っている人は誰もいなかった! しかも文学的重圧は、井上さんどころではない。ロシアは文学の国、作家は神の言葉を代弁する者として尊敬され、人生をどう生きるのか、その答えを小説に求める国です。
先輩作家が誰もいなくなってしまったチェーホフには、ものすごい重圧だったでしょう。それを背負わされて、彼はあの『イワーノフ』で混迷に陥った。さらに兄のニコライが死んだこともあり......「このままやっていてはいけない!」と感じ、まずはサハリンに逃げだしたんだと思います。
------文学的な転機を、そこで図ろうと計画したわけではない?
浦 チェーホフは、そんな見通しはなかったんじゃないかな。とにかく逃げて、流刑地という厳しい現実を目にして、その体験が彼の文学を具体的に変えていったのだと思います。
------どんな経験をしたのですか?
浦 チェーホフは、流刑地の実態調査をします。今でいうカード式のデータを作るんですね。そこで彼は、病院や監獄という閉ざされた空間を経験します。それから、年端のいかない少女の売春、公然と囚人に行われる笞打ちの刑など、モスクワの尺度では計れない悲惨な現実を見る。彼はそこで世界には中心がないんだと痛切に感じたのでしょう。
大事なのは、すがるべき中心を求めて、あがき苦しむのではなく、中心は一つではなく、遍在するのだと見通す透徹した目です。これは、以降の彼の劇の特徴です。チェーホフのすべきことがここで決まった。しかし、それはすぐに芝居として実現できたわけではありません。少しずつできていき、それが結実したのが『桜の園』だったのです。
------人生の最後になって、書くことができたんですね。浦さんは、「訳者あとがき」で印象的な言葉を綴っています。「『桜の園』を訳しながら、ちょっぴり感傷的な気分におそわれた。これがチェーホフの最後の作品だという思いがしじゅう脳裏を去らなかった」という言葉です。
浦 よく作家が「今のここを書くことで終わらせたくない」といいますが、僕もそんな気持ちになりました。ああ、これを訳してしまえば、僕の仕事も終わってしまうんじゃないかという感傷的な気持ちになったんです。作者最後の作品である意味は、大きかったですね。
------大学を退官するということもあったのではないですか?
浦 それはどうかな。僕は記念の最終講義をしなかったくらいだから、大学を去ることに対してそれほどの思いはないんですよ。僕は翻訳者になりたかった、それがたまたま大学の教師になって......まあ、授業はけっこう真面目にやってきましたが。心がけですか? 心がけていたことはウケることかな。大阪の人間だから、吉本的というか、ウケないとダメなんです(笑)。よくても悪くても、聞いている学生から反応がないとしゃべれない教師でした。学生たちと受け答えをしながらコミュニケーションをとり授業をしてきたんです。
------学生たちとのコミュニケーションといえば、噂の「浦BAR」について語らなければいけませんね。担当編集者から、いかにそこが楽しいところであるかを聞いていました。浦さんは、この研究室を開放してBARを開いていたんですね。
浦 そう、大きな声でいえることではありませんがね。毎週火曜日、大学院の5限の授業を終え、6時くらいから、この研究室で開いていたBARです。けっこう人気の店でした(笑)。学生ばかりでなく教師たちも集まってみんなでワイワイやりながら飲んで楽しんで......大学というところは、教師にはあまり横のつながりがなくて、専門以外の人とコミュニケーションするというのは案外難しいんですよ。それができたことはよかったですね。先生たちもそのことは評価してくれたかな。
------話をお聞きしながら思っていたのですが、この駒場の研究室の窓から見えるのは、新宿ですか? 素敵な夜景ですね。
浦 これは浦BARの魅力の一つでした。景色を見ながら飲みましょうか。
それから浦BARを特別に開けてもらい(といってもお酒とグラスを研究室のテーブルに出してもらうということなのですが)、私たちは浦さんのお話を聞き、そして夜景を見ながら、今では伝説となったBARを楽しんだのでした。
(聞き手/ 渡邉裕之)