前回は、筑波大附属駒場高校で実際に行われている読書会の、その運営について紹介しましたが、今回は具体的にそこで出た意見などをいくつか紹介していきたいと思います。といっても、意見交換や議論は3つのテーブルで行われていますので、自分が見学していて捉えられた範囲での紹介になりますので、あくまで部分的なものであることをご理解頂きたく思います。
こういった議論が3つのテーブルで散発的に、時に同時進行でわき起こり、あっちの議論がこっちにつながり...という発展の仕方が、なかなか興味深いものがありました。
生徒さんたちによるディスカッションのあと行われた、翻訳者の黒原敏行さんを囲んでの質疑セッションでは、ユーモアをどうやって訳すのかといった翻訳上の苦労のこと(「本作のような笑える話は翻訳が難しい」、「面白い言葉遊びになるところがあれば冒険的に取り入れることもある」とのこと)、翻訳期間のこと(「実働3カ月半くらい」)などについて質問がありました。編集部に対しても、どうやって企画をつくっているのか、といった質問や、大きい字のほうが断然読みやすいといった意見がありました。
質問に応える黒原敏行さん(右端)
大人がこういう作品を読むと、思想統制された全体主義的国家か、あるいは謎の超大国としてのソ連を思い浮かべがちで、ともすると「だけどそれは当時のアレだよね」的に現実と紐づけして終わりになってしまいがち。しかし、そういう先入観なく純粋に物語を分析していくことで、物語に隠された「現代に本書を読むことの新たな意味」みたいなものを見つけられるのではないか、とふと思いました。
もう中年にさしかかった私などは、あんまり何も考える必要ない世界、ソーマという薬で副作用なく幸せが味わえる世界なら、それでいいんじゃないのと思いがちですし、人の弱さみたいなものについてもだんだんと寛容になってくるのですが、高校生の社会の見方のほうが、正義感に満ち、潔癖で、ゆえに社会に感じる歪みや違和感に敏感に反応している気がします。これは逆にいうと、同じ本でも、人生における違う年代で読むと、まったく違う印象や感想が得られる、ということの証左かもしれません。
『すばらしい新世界』では、違う場所で違う人物から発せられるセリフを積み重ねていくことでスピーディーに物語が展開する箇所があるんですが、そこについて生徒さんが「まるで平田オリザの戯曲のよう」と表現されているのを聞いてびっくり。高校生でそんなこと思いつく? あとで調べたら筑波大附属駒場高校は演劇で有名な学校なんですね。本でも演劇でも音楽でも、なにか比較できる対象を持っているというのは、作品を相対化して客観的にとらえるうえで重要なことと思います。筑駒はやっぱりすごい!というのもありますが、ぜひ他でも、たとえばこういう読書会をきっかけにして、生徒たちが自分の興味を発展させていってもらえたらと思います。そういう興味を後押ししてあげるのは大人の仕事かと。光文社古典新訳文庫の作品がその一助になれば幸いです。