2013年9月24日の夕刻、東京大学の教壇に並ぶ二人の姿はとてもチャーミングでした。音楽というパッションの世界を生きると同時に体系的な批評言語を語るミュージシャン菊地成孔さんと、現代フランス文学の研究・翻訳を勢力的に行うとともにスイートな語り口が魅力的な講演会も多く開いている東京大学文学部教授の野崎歓さん。二人の教養と官能の絶妙なバランスを楽しもうと、教室にはたくさんの人が集まっていました。
ボリス・ヴィアンの小説『うたかたの日々』(野崎訳)を原作にした映画『ムード・インディゴ〜うたかたの日々〜』日本公開を記念して行われた対談。話は、菊地さんの「私はミュージシャンとしてのボリス・ヴィアンは認めない。トランペットはアマチュアですし、歌は聴くに値しない」という辛口の言葉から始まりました。
そして「彼が一番優れているところは、クラブカルチャーの人間としてです」という言葉から、戦後のパリ・クラブカルチャーの中心地であったサン・ジェルマン・デ・プレについての話題に。
そこからフランスの戦争直後のユールカルチャーの話へ展開し、そのカルチャーの代表作としての『うたかたの日々』の話を野崎さんが。
「この主人公たちの年齢は20と21歳。フランス文学で稀にみる若い主人公です。フランス文学はマダムの恋が主題の大人の文学ですから。若いだけではない、親の存在もまったく見えません」
「それが困る! 私は、精神分析から大きな影響を受けているフロイディアンなので、親がないと葛藤がありませんから。この主人公たちの特徴は、背景がない透明な存在ということです」と菊地さん。
そして、『うたかたの日々』の、背景のない無色透明な世界の特異性が浮かびあがってきます。このあたり、当時、サルトルがフロイトに関する映画を準備していたほどのフロイトブームの時代であり、その中でヴィアンがフロイトに反撥していたこと、あるいは、この作品が、フランス文化がナチスによって蹂躙された後の時代、「フランスなんて関係ないよ」とうそぶく若者文化の中から生まれたという、野崎さんの言葉を合わせて考えると、非常に興味深いものがあると思います。
話はまた転がって、野崎さんが「ヴィアンはアメリカではまったく知られていません。しかし日本では、特別に愛されている作家です。何故なんでしょうね?」といえば、「フランス文学のテーマは金銭といわれています。そして国文学のテーマは病気なんですね」と応える菊地さん。それを聞いて、「なるほど」と、主人公の恋人クロエの肺の中に睡蓮が成長する病のことを、観客の皆さんは思い浮かべたはず。
ここでジャズを知らない文学好きには重大な発言が。「肺の中に睡蓮が成長する病」とはいったい何を意味するのか? と思い続けてきた人も多いと思います。その謎を菊地さんはいとも簡単に解いてしまいました。
「デューク・エリントンの音楽が鳴り続けるこの映画を見ればわかりますが、これはエリントンをモチーフにした小説です。エリントニストからすれば、あの病気は単に「ロータス・ブロッサム」という彼の曲があるからにすぎません」
そうか、ジャズの教養が足りない人間の謎だったのですね。 「音楽ファンと文学のファン、蓮の表象の定義はまったく違うということです」と教壇の菊地さん、ニヤリと笑いました。まさに「東京大学のキクチ・ナルヨシ」ここにあり。
その他、印象的だったのは、野崎さんのこんな話でした。 「この作品は日本でとても愛されていますが、ただし、日本人には違和感を感じるところが一つあります。それが徹底的な労働の嫌悪です」
確かに、この小説の登場人物たちは、華麗なパーティ・ピープルとして、仕事など何ひとつせず遊び続けます。ただし、それは物語の前半のこと。クロエが例の病になると、物語は暗転、後半、嫌悪すべき労働の日々がことさら暗く描かれます。
「高等遊民として暮らしている人たちが、最終的に全員不幸になる。その理由は、遊んでいたからですか?」 と納得できない様子の菊地さん。
クラブカルチャーの代表格であるヴィアンが、なぜパーティ・ピープルの悲劇を描いたのか、あるいは結婚の不幸を書いたボリス・ヴィアンは、実はとても幸福な結婚生活を送っていたという野崎さんの指摘など、『うたかたの日々』の「不幸な結末」には色々と謎があって、考えだすとけっこう楽しめるようです!
それからラストに展開した、映画批評も多く書いているお二人の「近頃、フランス映画が元気になっている!」という映画談義も楽しいものでした。元気になっているフランス映画の証としても、このミシェル・ゴンドリー監督の『ムード・インディゴ〜うたかたの日々〜』はあるとか......映画、見にいきましょう。全編流れるデューク・エリントンの音楽がかなりいいらしいです。
[文責: 渡邉裕之]
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