「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。[文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈11月刊〉
『ひとさらい』(シュペルヴィエル 永田千奈/訳)
2013年11月に出版されたシュペルヴィエルの長編小説『ひとさらい』は、小さな花を摘むように、子供をさらっていく人の物語だ。
古典新訳文庫に入っている『海に住む少女』(永田千奈訳)。この本でシュペルヴィエルを初めて知った人は多いはず。(ひとめぼれではなかったですか?)表紙を開けて、表題作を読んで初めてのシュペルヴィエルに心を奪われてしまった人は、『ひとさらい』の刊行を歓んでくれるだろう。あの短編の中にあった、シュペルヴィエルにしか表現できない「どちらにもいられない」という孤独感が、この長編にもくっきりと表現されているから。
シュペルヴィエル独自の「どちらにもいられない」孤独感について、翻訳をした永田千奈さんは、「これは海の上で書かれた物語である」という印象的なフレーズで始まる「解説」で書いている。
彼がウルグアイで生まれたこと、生涯にわたって、フランスと南米を行き来する生活が続いたこと。こうした人生を背景にして、この作家が「どちらにもいられない」孤独感を結晶化した詩や小説を書き続けてきたことを、納得がいく形で教えてくれる。
『海に住む少女』では孤立を示す場所として海上の街が出現するが、ほとんどの物語がパリで展開される『ひとさらい』でも、クライマックスはフランスから南米に向かう船上に設定されている。「どちらにもいられない」から、二つの土地の間の海に光が当てられるのだ。
『ひとさらい』は、ひとさらいをした男が、あるきっかけで孤独を強く感じるようになり、その海に向かってゆっくり進んでいく物語だ。導入部はパリの雑踏。アントワーヌという7歳の男の子が誘拐される場面。
「アントワーヌは新聞売りのスタンドに目をやった。サッカー選手の大きな足が印刷されているのが見えた。どこにあるとも知れぬゴールに向かってシュートしている足だ、アントワーヌが新聞の挿絵に見入っていたそのとき、誰かが強引に彼の手を女中から引き離した。アントワーヌの耳をかすめるように、とつぜん伸びてきた手、黒曜石のついた金の指輪をはめたあの手は、いったい誰の手なのだろう。
アントワーヌはそのまま雑踏に飲み込まれてしまった」
小さな頃、雑踏で迷子になったことがある人、とりわけ親だと思って握っていた手が、ふと見上げればまったく知らない大人のものだったという経験がある者には、鮮明に記憶が甦る描写ではないか。サッカー選手の大きな足、金の指輪をはめた手といった、断片的な身体の描写は、子供が大人の全身を見ることができない小さい人であることを、また自身を飲み込んでいく雑踏は、小さな人の無力さを示している。
そう、自分が迷子になったことを自覚した時の、子供であることの圧倒的な不利に打ちのめされた体感を、読者はありありと思い出すだろう。
しかし、アントワーヌが感じているのは迷子の恐怖ばかりではない。突然の展開にどこか魅了されているのだ。振り返ると「すぐ後ろに背の高い、いかめしいながらもどこか優しげな紳士が立っている」。そして少年は、彼の「見事なリムジン」に、自ら乗り込んでしまう。
こうしてさらわれたアントワーヌは、「優しげな紳士」フィレモン・ビグア大佐の家で暮らすことになる。その邸宅には大佐の妻や使用人、そして、同じようにさらわれた男の子3人が住んでいた。
シュペルヴィエルの作品だから、犯罪小説のような展開にはならない。さらわれた子供、大佐夫妻と使用人の暮らしが繊細なタッチで描写されていく。
初めに「美しい花を摘むように、子供をさらっていく人」と書いたけれど、大佐は美しい子供だから連れ去っていくのではない。不幸な境遇にいる子供を見ると、いてもたってもいられなくなるのだ。貧しい家の子供ばかりではない、アントワーヌの場合は、裕福だが、父はなく母親は育児放棄をしていた。
この小説の魅力は、さらわれた子供とひとさらいをした大佐の日常の描写だ。魅惑的なところを少しだけ紹介する。
大佐は南米の軍人で何か政争に巻き込まれ今はパリにいる設定となっているので、パリの金持ちの日常に、南米の暮らしぶりが交じり込んでいる。大きな暖炉にフォゴンと呼ばれる南米風のかまど、居間で大佐がギターをつま弾きながら唄うガウチョたちの唄。
このあたり、非常に風情があって楽しめる場面だ。
(ブラジルの音楽に関する映画なども撮っている歌手ピエール・バルーが好きな人はたまらないのではないかな)
ここで『ひとさらい』の話から少し離れて、誘拐をめぐる物語について気になる話を少し。
まずは『コレクター』という映画。ウィリアム・ワイラー監督の1965年の作品です。
蝶の採集が趣味の男が宝くじで当てた金で大きな家を手に入れ、美術大学に通う女性を誘拐し、地下室に監禁するという物語でした。
男を演じる俳優テレンス・スタンプの奇妙な存在感もあり、変態性が前面に出ていた映画だったと思うのだが、原作であるジョン・ファウルズの小説『コレクター』は どうもそれとは違った方向性のものだったらしい。
それを知ったのは、批評家の粉川哲夫さんと三田格さんが今年出した批評対談集『無縁のメディア』(Pヴァイン)でだった。
三田さんによると、小説では、誘拐された女子大生は左翼の活動家で、「彼女は自分たちが革命の担い手になってくれるだろうと期待していた労働者」にあえて拉致・監禁されるような設定になっているのだ。男は食事を運んでいく度に左翼理論を聞かされ、それが嫌で「逃げ出すように彼女の元を去る」という物語なのである。
「ワイラーは、この関係式から言語で構築されている部分を取り去って猟奇映画の古典を成立させたことになりますが、ファウルズは明らかに左翼に対する皮肉として『コレクター』を書いたようにしか読めません」と三田さんはいっている......、う〜む、この原作は興味深い。小説は白水社から出ているので、読んでみようと思います。
それから誘拐劇というよりは「ひとさらいモノ」でお勧めしたいのが、黒田硫黄の漫画『大日本天狗党絵詞』(講談社)。天狗にさらわれた少女と、日本に革命を起こそうとする天狗たちを描いた群衆劇だ。
モノクロの少々貧乏くさい日本映画的画面に、ダイナミックな幻想が挿入されるところが魅力の漫画だ。その迫力あるモンタージュを、この漫画家は「かみかくし幻想」を上手に使って行う。
ある日、共同体から子供が忽然と消える。そこから生まれる幻想「かみかくし」は、日本の物語の重要な要素だ。
十数年前、何気なくテレビを見ていると、アメリカ人の超能力者が出てきて、失踪者をその能力を遣って捜索するという番組が始まった。その中で、小さな男の子が突然いなくなった事件を扱っていた。そこで超能力者が幻視(?)していくのだが、彼によれば、その男の子は今でも生きていて、ある老人とともに旅をしているという。その老人の姿を描写させると、行者のような姿なのだ。
それをテレビで見ていた私は、なんともいえない感情に包まれたのだった。能や民話の中の「かみかくし」の物語に出会った時に必ず起こる、独特なせつなさ。本当は事故や誘拐かもしれないが、それを神の仕業と考えざるえない親や共同体の無力さ。そんな無力な共同体に育まれた子供の運命がさらに愛おしい。それが交じり合って独特なせつなさになるのだった。
これは人間が起こした「ひとさらいモノ」では起きない。このシュペルヴィエルの『ひとさらい』も心が痛くなる小説なのだが、やはり人が起こしたものなので、「かみかくし」の感傷はない。
「かみかくし」のせつなさは、本来的には自然に対して無力な共同体と、運命に対して無力な人間を代表する子供のあり方が合わさって醸し出される。
『大日本天狗党絵詞』は、その共同体論と子供観をしっかり捉えて物語を構築した漫画だった。そういえば、作者の黒田硫黄さんは、この文庫でも翻訳をしている野崎歓さんの一橋大学時代の教え子の一人だったはず。
話をもどそう。さらわれてきた子供たちと、ひとさらいをした大佐の暮らしだ。その中に、一人の少女が入り込んでくる。マルセルという名の美しい少女。
さらってきたのではなく、その父親に嘆願されて連れてきたマルセル。
大佐はマルセルに恋している自分にある日気づく。だが、少女を強引に自分のものにはできない。この疑似家族の父親なのだから。恋する者と家父長の分裂から、あの「どちらにもいられない」孤独感が生じてくる。シュペルヴィエル独自の海へ向かう物語が発動する。
この作家独自の世界が展開されていくと、読者は自分が知っている最も繊細なタッチで描くイラストレーターの絵柄を思い出しながら物語を追っていくのではないだろうか。とにかく描写が繊細で、描かれるイメージがとても美しいから。
私が頭に浮かべたのは、山名文夫のタッチ。 資生堂のマークや、新潮文庫の葡萄の絵柄をデザインしたイラストレーターだ。私は1958年に発行された『Yamana-Ayao装画集』(美術出版社)をもっている。この画集は、山名が戦前、資生堂に入って描いた広告や、『婦人画報』などの女性雑誌のカットを基に、戦後描き直したイラストを集めたものだ。
実は、最初の手の絵が載っている見開きの写真は、その画集を撮影したものだ。
私はマルセルの顔を、このような山名文夫の絵で想像した。
横顔を描く細い1本のライン。それに触れれば、糸はほどけ海へ向かう一本道になり、波そのものなってしまう......。そんなイメージだ。
船に乗り込んだ大佐には悲劇が待っている。その悲劇もシュペルヴィエルらしい「どちらにもいられない」孤独を強く表現したものだ。