「光文社古典新訳文庫」を、良質な古典作品がかかる劇場に見立て、毎月新刊を紹介。その時々の街の話題と一緒に。 [文 : 渡邉裕之・文筆家]
〈2013年12月の新刊〉
『崩れゆく絆』(アチェベ 粟飯原文子/訳)
ナイジェリア出身の作家アチェベの『崩れゆく絆』が、古典新訳文庫のラインナップに入ったことを歓びたい。『高慢と偏見』や『アンナ・カレーニナ』とともに並ぶということが、この作品の一番の紹介の仕方だと思う。
なぜなら『崩れゆく絆』は、小説らしい小説を楽しむのに最高に適した作品だということを、まず示されるべき作品だからだ。
当然私たちは「アフリカ文学」だということであれば身構えて読む。小説の冒頭に示されるアフリカの「異質な」風俗に色めき立って読み始める、だが数ページ読んだところで、主人公の心理を一途に辿っている自分に気づくだろう。
『高慢と偏見』や『アンナ・カレーニナ』の女主人公にしたように、この主人公のアフリカの男の心模様を細やかにトレースしているのである。小説らしい小説の読者として。
小説の冒頭、主人公の男オコンクウォが、村落間で行われるレスリングの最高の勇者であることが示される。
実は私の心は騒いだ。少し前からコンゴのプロレスラーの異様な姿が気になっていたからだ。写真を見ていただきたい。
すごいですよね。
様々な文化が混交してできあがっているこのプロレスについては、また改めて語りたいと思います。
しかし私たちは、ヨーロッパ人でもなんでもないのに、こんな風に、ついアフリカに過剰に「異質なるもの」を求めてしまう。その他の例としては、ナイジェリアのミュージシャン、フェラ・クティに通常聴いているポップスとは異なった強い力を求めてしまったりする自分がいる。
その音楽もちょっぴり紹介しよう!
これもすごい。そうだ、昨年出た『フェラ・クティ自伝』(カルロス・ムーア/著 菊池淳子/訳 現代企画室)は、音楽ファンの間ではとても評価されている本です。
こうした格闘技や音楽のジャンル以上に、文学領域でも「異質なるもの」への欲求が強く動く。アフリカの小説を読むのなら、それこそシュールレアリスト兼文化人類学者が腰を抜かすような、超小説を求めようとする......が、先述したように、『崩れゆく絆』ではいつのまにかそんな欲望は治まり、小説らしい小説の読者の立場にいる自分に気づくのだ。
オコンクウォの父親は、若い頃からぐうたらで家族をもってもその日暮らしをしている男だった。そんな父親をオコンクウォは恥じていた。だから彼はしっかりとした男の中の男になろうとした。結果、彼は九つの集落の最強レスラーという名声を勝ち得、裕福な農民となり、三人の妻ももてるような男となっていた。
小説は進む。そして次のような言葉が入ってくる。
「オコンクウォは家を厳しく取り仕切っていた。妻たち、なかでも一番若い妻と、幼い子どもたちは、彼の激しい気性に絶えずおびえていた。おそらくオコンクウォは、心の底から冷淡な人間というわけではない。だが、彼の人生は恐怖に支配されており、失敗したり、弱さを見せたりするのではないか、という不安にとりつかれていたのだ」
このあたりから、私たちは主人公の男の心理を細かに追うようになる。何故、そうなるのか。父親の弱さに恥じ入ったり憎んだり、だからこそ父親が好んだこととは正反対のことをしようとする男の心が、よくわかるからだ。
これは作家の力量であろう。描写されている生活は、私たちにはそれこそ「異質なるもの」ではあるのだけど、それを越えて父と息子の葛藤が、どんな読者にも自分のことのようにわかるように作者は書いているのだ。
しかも主人公が問題にするその「弱さ」というものが、重要なモチーフになっていることが、物語が展開していくうちに見えくる。読者は「弱さ」とは正反対の最強のレスラーである男の心理に注目せざるをえない。
オコンクウォの個人的な物語の背景には、19世紀後半、現在のナイジェリア東部州にある共同体が、イギリスの植民地支配によって崩壊していく過程がある。
ヨーロッパの社会システムは、まずキリスト教として共同体に入り込んでくる。
宣教師たちは最初まったく信用されない。というより「白い肌」の者たちは、この土地では劣等の者たちであり、強い男たちにとって相手にしていられない連中なのだ。彼等は悪霊の森に教会を建てる。そんなことをすれば悪霊が彼等を一人残らず殺戮してしまうはず......しかし、そんなことは起こらない。あろうことか元気に賛美歌を大声で唄っている。
教会を遠くから取り囲む村の人々の中から改宗者が出てくる。一人は女性で、これまで4度の妊娠と出産を経験していて、その都度双子が生まれて、すぐに捨てられてしまったという経験をしている人だ。双子はこの村社会にとってあってはならない存在なのだろう。
「そんな女だったので、夫も夫の家族も厳しい非難の目を向けるようになっており、彼女が逃げ出し、キリスト教徒の仲間になったからといって、べつだんうろたえるようなことはなかった。要するに、いい厄介払いだったのだ」
このような共同体の厄介者が弾き出されるようにして教会に入っていく様子が書かれ、次に作家が描く改宗者が、他ならぬオコンクウォの長男ンウォイェなのだった。
ンウォイェは、物語の始めから「弱い者」として登場する。オコンクウォは共同体の強者として、たとえば共同体のために双子を殺すような立場の者だった。そのような父の行為を横で見ながら、「心のなかでなにかが壊れてしまった」ような経験を何度かンウォイェはしていた。
家の中の仕事を怠けるような生来の「弱さ」と、父による精神的な破壊による「弱さ」を合わせもつこの息子にとって、この新しい信仰が奏でる詩情は、骨の髄に染み入るような魅力があった。「讃美歌の言葉はまるで喘ぐ大地の干上がった口で溶けていく、凍った雨粒のようだった」。
ある日、 ンウォイェは教会に行っていたことが発覚し、父親に怒られ首を絞められ殺されそうになる。やっとの思いで教会に逃げ込む。その行為は宣教師によって「父を捨てた」ことと見なされ、そのまま「父と母を捨てた者は幸いである」という教義にはめ込まれてしまう。
このンウォイェの入信のドラマは、「読んでいてよかった」と読者に思わせる豊かさをもっている。父子の葛藤と文化の対立が重ね合わされているだけでなく、小説でしか書けない「弱さ」という問題が色濃く浮かびあがってくるからだ。
アチェベがこのようなドラマを組み立てたのは、新たな信仰キリスト教に対して、共同体の中の「弱い者」がまず反応したということが、実際にあったからだけではないはずだ。もっと強いメッセージが感じられる。それはどういうことなのだろう。
私が考えたのはこういうことだった。この小説を書いたアチェベのように、キリスト教が入り込んだ後の共同体の人間が、キリスト教が入る以前の共同体を振り返った時に、そこで注目するのは「弱さ」の部分だからだと。
本書を翻訳した粟飯原文子さんは、次のように「解説」で書いている。
「注目すべきは、真っ先に改宗して植民地支配の側につくのが、共同体から抑圧を受けてきた者たちであることだ。ここには、キリスト教の「解放」のレトリックがいかに植民地に入り込んで機能し、それまでの社会や文化を転覆させていったかということが象徴的に表されている。たしかに、ある人びとにとってはキリスト教が新たな可能性と解放の契機をもたらした。しかし同時に、キリスト教が植民地支配の論理と結びつき、社会が独自に変革し刷新していく能力と機会を、暴力的に、そして永久に奪い去ってしまうことになった」
この文章を受けていうなら、キリスト教が入り込んだ後の共同体=植民地の人間が、それ以前の共同体を振り返り、積極的に「社会が独自に変革し刷新していく能力と機会」を見つけようした時に発見するのは、かつての共同体の負の要素、「弱い」と思われていた部分だ。人物としてはンウォイェのような人にその可能性はあったと考えるはずだ。
何故なら、変革・刷新する者には共同体と自分との間に、ある距離感が必要だ。共同体の強い力で「心のなかでなにかが壊れてしまった」ような経験をもっている人が、そういう距離感をもつことができるからだ。
もうひとつ「弱さ」に対する視点がある。キリスト教には特に新約では、徹底的に「弱い者」とともにいようとするイエスのように、「弱さ」は大きなテーマだ。キリスト教の伝道師もしていた父親をもつアチェベは、身についたキリスト教の視点から「弱さ」を見ている。
共同体が生き延びるためには、敵に対抗できる力強さではなく、自分たちの社会を刷新していく能力の方が必要なのだ。その能力は実は「弱い人」にあったはず。
しかし現実的には、真っ先に改宗するのはこうした「弱い人」なのだった。
同時にキリスト教が、「弱い人」を得ることを常に必要としていること。
ここには植民地支配の先兵であるキリスト教が、アフリカの共同体を一方的に破壊していったという単純な物語はない。
九つの集落の最強レスラーという名声を勝ち得た男の「弱さ」を巡る物語は、一見すると単純だが非常に複雑だ。
その複雑さを味わうことが、小説らしい小説を読むことの楽しさだ。