裏の回では、2回表に登場した小尾芙佐さんの愛読書、当時の出版や翻訳事情、関連する本などをご紹介します。
敗戦から1か月、1945年9月15日に刊行された、36ページ、80銭の『日米會話手帳』はたちまちベストセラーになり、3か月間で350万部前後を売ったという。企画した誠文堂新光社の小川菊松は、自社刊行の『出版興亡五十年』(1953)でこう述懐する。(以下、引用は『「日米会話手帳」はなぜ売れたか』(朝日新聞社 編、朝日新聞社 1995年より)
「十五日、私は丁度所用があって房州に出張していて、ラジオから流れ出るあの天皇陛下のお言葉を聞いたのは岩井駅であった。これを聞く多数の人々とともに溢れる涙を禁ずることはできなかったが、帰京の汽車の中で考えついたのは「日英会話」に関する出版の企画だった。関東大震災の直後ヒットした、「大震大火の東京」当時のことを思い出し、いろいろと方策を練りながら帰って来た」
英米人と接する機会が増え、会話の入門書が必要になることを予測した小松氏のカンは鋭いが、それだけでは敗戦直後の出版は現実化できない。評論家の武田徹は、本書のなかでこう指摘する。
「科学雑誌を主に刊行していた誠文堂新光社は軍事技術賛美の編集方針ゆえに戦時中も紙の配給を多く受けており、それが物資の枯渇を極めた終戦後にも使えたのだ」
小川菊松が企画を命じたという「科学画報」編集部の加藤美生は、少し違うエピソードを披露する。8月20日ごろ、原稿依頼に出かけた立川駅で、黒人の米兵たちが英語を話しているのを見て企画がひらめき、社に帰ってから自分が小川社長に英会話の本をやらないかと提案したという。とはいえ、「小川さんはとにかくカンの良い人だから、彼も彼なりに英会話本を考えていたことに間違いはないだろうと思います」という証言を、加藤美生に会った武田徹は記している。
編集にあたっては、日本がアジア諸国を植民地化するなかで出版された、日中会話や日タイ会話など、古本屋に打ち捨てられるように置かれていたのを買い込んだそうだ。戦争に敗れ、自分たちがアメリカに占領支配されるとき、大東亜共栄圏時代の会話本が参考にされたことにも、歴史の皮肉を感じる。
1995年刊の上下巻を合本・改題して「文春文藝ライブラリー」として刊行された井上ひさし著『完本 ベストセラーの戦後史』(文藝春秋 2014年)でも、巻頭を飾るのは『日米会話手帳』だ。
戦後の英会話ブームについて井上ひさしは、「米兵を眼のあたりに見ることで日本人は回心したのである。回心ということばの意味はさまざまで、「おそれ」も入れば「あこがれ」も入る。「甘えたい」という気持も混っていれば、「手本にしよう」という決心も混る」と分析している。
そして、関東大震災につづいて時流に乗ったヒット本を企画した小川菊松が、二年半後、戦時中の出版活動をとがめられて公職追放になったという事実を記している。
ちなみに、本書の2項目めで井上ひさしが取り上げているのは、翌1946(昭和21)年のベストセラー、ヴァン・デ・ヴェルデ著『完全なる結婚』。柴豪雄訳(大洋社)と神谷茂数・原一平訳(ふもと社:抄訳)が、半月違いで刊行されたという。
津田塾大学を卒業した翻訳者には、中村妙子、映画字幕の戸田奈津子がいる。神谷(小尾)芙佐も講義を受けた津田塾教授の近藤いね子は、戦前に林芙美子や夏目漱石の小説を英語に翻訳している。
また、この連載の2回表で神谷が同じ寮にいたと言っている上級生の大庭みな子に関して、『津田梅子の娘たち』ではこう記述されている。
「(大庭の)入学は一九四九(昭和二四)年、まだ物資が乏しいころで、東寮で四年間を過ごした。寮生活は高等女学校時代に経験していたが、田舎の女学校の寄宿舎生活はなにかと制約が多く、ものも言えないような感じだった。そこから津田塾に入ったときの解放感はこの上なく大きく、非常に幸せだったという」(文・川本静子)
このほか、教育、政治、経済などさまざまな分野で活躍する40人が掲載されている。
小学校の給食に脱脂粉乳が出た私でも、さすがに敗戦直後の英会話ブームは知らない。だが、父親は当時の波に乗ったのか、英会話ができる人だった。
戦後、焼け野原の東京に福島から出てきた両親は、「標準語」を話そうと努力したようだが、ふたりとも同郷なので、なかなか訛りが抜けない。私の子ども時代である1960--70年代も、東北弁の訛りは劣等感を伴う恥ずべきものだった。
近所にも親が福島出身の子がいて、漢字の読み仮名をふるテストで「上野」に「ういの」と書いて、×をつけられたと嘆いていた。東北本線で上野駅に着いたときのアナウンスは「ういの〜 ういの〜」と聞こえるのに。
「い」と「え」の区別ができないというか、ほぼ逆。「だから福島県人は英語の発音がいい」というのが父の持論だった。曖昧母音の発音がネイティブ並みだというのだ。そんな家庭だったので、私もずっと「こうないいん」だと思っていた。口内「炎」だと気づいたのは中学生か高校生になってからのこと。
小学校にも福島か山形出身の先生がいて、「い」と「え」のところで緊張して発音しているのが子どもにもわかり、なんとなく痛々しかった。
関西から福島に移り住んだ知人が「そうそう、"エロいんびつ"っていうから、最初はわからなかった」と懐かしそうに話していた。色鉛筆のことだ。
(構成・文 大橋由香子)
大橋由香子(おおはし ゆかこ) プロフィール
フリーライター・編集者。月刊「翻訳の世界」(バベル・プレス)やムック「翻訳事典」(アルク)等で翻訳者へのインタビュー取材を手がけてきた。光文社古典新訳文庫の創設時スタッフでもある。著書『同時通訳者 鳥飼玖美子』『生命科学者 中村桂子』(理論社 )『満心愛の人』(インパクト出版会)ほか。