ちょうど10年前、古典新訳文庫の創刊準備を進めていたころに、ずいぶんたくさんの世界文学の入門書を読みました。ごく一般的な概説書からきわめて専門性の高いものまで、それこそ手当たり次第に読みまくりました。ひとつには21世紀にもう一度読まれるべき古典作品を選定するため。ふたつには自分にとっては未読だが、これは絶対に新訳すべき作品だというものを探すためでした。
数多い入門書のなかで一番共感できたのが、モームの『読書案内』です。モームには『世界の十大小説(上・下)』(岩波文庫)というすぐれた著作もあって、こちらもおおいに参考にしましたが、今回は手軽に読めて、もっとも薄い世界文学入門書として、『読書案内』のほうをご紹介したいと思います。この本はアメリカの週刊誌の連載を一冊にまとめたもので、刊行時に「はしがき」をつけ加えています。僕がこの本を読んだ時の感想は、「肩の力が抜けたなあ」というところでしょうか。
世界文学や思想書の新訳企画などというと、必要以上に力んでしまうのは避けられません。ドストエフスキーだ、バルザックだ、メルヴィルだ、とくれば、いささか緊張してしまうのは当たり前です。そんなときに「いやあ、退屈なところや分からないところは、飛ばし読みしていいんだよ。私もそうしているんだから」などというありがたいお言葉でモームに励まされると、それだけで世界文学がぐっと身近に感じられてしまいます。なにしろ『カラマーゾフの兄弟』は文学の最高の地位を占めるものだと固く信じて疑わないなどと言いながらも、すぐあとでこんな風に書くのですから。
『カラマーゾフの兄弟』のおわりの数章は、うむところを知らぬ読者でもなければ、とうてい完全にはよめるものではないのだから。わたくし自身のことを申せば、ドストエフスキーが、法廷の場面で、弁護士に述べさせている論告など、精読する気にはとうていなれず、ざっと目を通しただけであった。
なんともきっぱりとしているではありませんか。世界文学は正座して読みなさい、とでもいうようなわが国の古典的な教養主義に反旗を翻すのだと意気込んでも、さすがにドストエフスキーやトルストイにはちょっと気圧されるな(生意気ですが)と思っていました。そんな僕にとっては、こういう読み方を平然と勧めてくるモームが、愉快で好ましく思えたのです。
あの『ドン・キホーテ』についても同じことを勧めています。セルバンテスが、原稿料の小金欲しさに話を膨らませたところなんか、さっさと飛ばし読みしなさいということです。面白いことに英語の翻訳本には、飛ばしてよい部分を小さな活字で印刷したものがあるらしいのです。トルストイの『戦争と平和』にだって容赦はありません。
戦争の場面があまりにもしばしば出てきて、しかもその一つひとつが微に入り細に入り語られていてうんざりするくらいであり、フリーメーソンに加わったピエールの経験は、退屈なことこの上もない。しかし、そうしたところは、とばしてよめばいい。とばしてよんでも、やはりこの小説が偉大な作品であることには少しもかわりがない。
どうです。ここまで言われるといっそ清々しいですね。
ところでモームというと、「ああ、モームね」という読者が多いのはなぜでしょうか。なんとなくわかってしまったような気がする作家。そんなイメージが定着している。これはモームの文学観の古さからくるのだという考え方もあるでしょう。しかし、個人的にはモームは決してそんな作家ではないと思っています。
古典新訳文庫には『月と六ペンス』(土屋政雄訳)、『マウントドレイゴ卿/パーティの前に』(木村政則訳)の2冊が入っています。どちらも見事な翻訳で、是非読んでいただきたいのですが、この2冊の校正刷りを精読しながら、僕はモームの小説家としての腕前にあらためて驚嘆しました。皮肉とユーモア。イギリス小説の決まり文句はこれですが、なかなかそういう味わいを持った作品に出会うことはできません。しかしモームの文学には正真正銘の「皮肉とユーモア」が含まれています。ですからモームの復権を声高に叫びたくもなってしまうのです。
『読書案内』においてモームが主張する読むべき小説の選び方は、以下の2点に集約されると思います。まず第1点は、なによりも楽しく読めるものを選ぶことです。
ある書物を(本書の)リストにとりあげるにあたり、まず第一にその書物に求めた条件は、楽しくよめるということであった。それというのも、リストにかかげた書物を、あなたにぜひともよんでいただきたいからである。
小説は20世紀の後半に極度に難しいものになり、大衆には手の届かないものになってしまったのは残念なことだ。いや、文学というものが真剣に追究されれば、それは必然のことであり、面白さは必要ではないのだ――。こういう議論はそれこそ耳にタコができるほど聞かされてきました。でも楽しく読めるものを堂々と勧めてくるモームは、ちっとも古くないと思うのです。
第2点は、もっとも本質的なことです
ある書物があなたにとって大切なのは、その書物があなたにたいしてどのような意味をもつかという、ただその点だけなので、たとえあなたの意見が、他のあらゆる人びとと相容れないことがあっても、そんなことはぜんぜん問題にならない。あなたにとっては、あなた自身の考えこそ、価値をもつのである。
こんなにはっきりとした物言いは、あるようでなかなかない。モームは世界的な傑作と呼ばれるものであれ、自分にとってつまらないものは、つまらないと言っていいのだと断言しています。無理に感嘆して見せる必要などさらさらないのだと。これは簡単なようでむずかしい。われわれには見えもあり、他人の評価を気にせずにはいられない一面をもっているからです。まして世界文学を読むときには、ことさらそうなる傾向があります。
この小さな本でモームが紹介しているのは、イギリス文学、ヨーロッパ文学、アメリカ文学だけです。大変古典的なカテゴライズといえば、まったくそうですが、まずここに触れられている作品から読み始めるのが、若い人には一番良いと思います。モームが取り上げている古典作品は、間違いのないものばかりですから。逆に通好みの作品を期待される向きには、いささか退屈に思えてしまうかもしれません。
モームはフランス文学には高い評価を与えています。バルザックやスタンダール、さらにはモンテーニュ、デュマ、プル-スト。個人的には古典新訳文庫で3月に刊行したコンスタンの『アドルフ』がリストに入っていることがうれしい。これもお勧めの作品です。なぜかアメリカ文学については、モームらしい明快さに欠ける憾みがあります。イギリス人特有の態度なのでしょうか。ちょっと分かりにくいところです。
最後にゲーテについて触れた文章の末尾の部分をご紹介しましょう。論じているのは、イギリスの歴史家にして評論家であったカーライルが英訳した『ヴィルヘルム・マイステルの徒弟時代』。この作品はドイツにあってさえ、ほとんど読まれなかったとモームは断じますが、いっぽうで賞賛を惜しみません。そうしておいて、終わりに訳者であるカーライルの言葉を紹介するのです。
「ゲーテはここ100年間を通じて最大の天才であり、同時にまた、ここ300年間を通じて最大の阿呆でもある」
こんな文句をゲーテ紹介の最後に添えた『読書案内』。類書はありません。どうです、読んでみたくなったでしょう?
[文 : 翻訳編集部 編集長・駒井 稔]
《関連刊行本》