あくまで翻訳者としてだが、7月半ばに顔合わせして以来の2カ月近い稽古に、何回か波状的におつきあいさせて貰って迎える初日は、やはりわくわくドキドキします...。
稽古場で現寸大の舞台を組んで稽古してきたものが本番の千席近い大きな中劇場の舞台に置かれると、承知はしていたものの、なるほどこういうスケールかと、『三文オペラ』の世界と現在の世界が合わせ鏡で浮かびあがってくるよう。舞台に乗る役者だけで40名近い、楽団を入れるとほぼ50名。スタッフ総勢では80名のパワーの結集。
稽古場報告のときも書いたように、ピーチャム夫妻を中心とする乞食ワールドが10数名、メッキースの泥棒団が6名ほど、ジェニーを中心とする娼婦ワールドも10名近い。背後に警視総監ブラウンが率いる警官たち――そのすべてのお話が大きな鉄骨鉄橋のようなシンプルでダイナミックな舞台装置のなかで展開するために、それが龍のように見えて、それぞれの世界がくんずほぐれつするこの世の集団力学、いわば民衆のエネルギーの化身のような『三文オペラ』という龍=ドラゴンが本当に生命を得てうごめき始めるように見えてくるのです。
そもそもは、盗賊団のキャプテンのメッキースが乞食の友商会の社長ピーチャムの娘ポリーと結婚したことから、娘を取り戻そうとピーチャム夫妻が、警視総監ブラウンにメッキースの悪行を密告して逮捕させようと画策。だがブラウンはメッキースとは戦友で親友の仲。そこで女王の戴冠式に乞食のデモをすると圧力をかけ、あわやメッキースが絞首刑になるかというときに女王の使者でブラウンが登場し・・・そういった荒唐無稽の喜劇。
初日の感想で舞台のネタばれになってはいけないのかもしれませんが、18世紀初頭のジョン・ゲイの原作『乞食オペラ』を借りてブレヒトが20世紀初頭に自由に翻案改作したありそうであり得ないお話は、「それがこの世の仕組み」という「三文ドラゴン」の仕掛けに取り込まれても行く。ふつうは大道歌手によって唄われる冒頭のメッキースの悪行を並べたてた「モリタ―ト=大道殺人歌」が、序曲の後、全員(乞食に泥棒に娼婦たち...)がどこからともなく、マンホールからも現れてきて、皆で代わり番こに、輪唱・合唱される。そしてあの有名なメッキースの辞世の言葉、「銀行強盗に使う合鍵など、銀行の株券に比べれば何ほどのものでありましょう。銀校設立に比べれば、銀行強盗など何ほどの罪か。男一匹飼い殺すのと、男一匹殺すのと、どちらがたちが悪いでしょう」という今でも十分リアルそうな半沢直樹張りの演説をはさんで、第3幕のフィナーレでまた登場人物の全員によって、「これですべてがハッピーエンド」、「現実の世界ではこうはいかない」、「不正はあまり追及すると、この世の冷たさに、凍りついてしまう」と輪唱・合唱される。二重三重にこの世の嘘と真のからくりが引っくり返って問われ、笑い飛ばされるのです。ブレヒトの歌詞にヴァイルが作曲した23の歌=ソング=曲が、実は全体をコメントしつつ、引っ張って行くドラゴンだった。
気障な女たらしで稀代の大泥棒と言う池内メッキースは実は憎めない可愛いいい男で、石井タイガ―・ブラウンとのあそこまでの友情もありかと思わせもする。観客に語りかける山路ピーチャムが、実に絶妙な形で全体の狂言回し役となって舞台と客席をつなぐ。
そしてパワフルな女たち。あめくみちこ演じるピーチャム夫人は山路ピーチャムのいい相棒だし、ポリー役のソニンはいまどきの可愛いぶりっ子風のしたたかさで大健闘、大塚演じるブラウンの娘ルーシーとの妻の座をめぐる闘いと嫉妬のデュエットも楽しい。対して、愛するメッキースを二度も裏切る娼婦ジェニー役の島田は、人生の酸いも甘いも体得した大人の女の切なさと哀しさとしたたかさを、唄のうまさだけでなく風情と佇まいと立ち位置で魅力を際立たせる。
その7名だけでなく、乞食たちや泥棒たちや娼婦たちや警官たちも、「たち」としてだけでなく、それぞれの顔と表情と存在がしっかり見える、稀有な民衆劇になっている。"ドラゴン"は、この世界という劇場を動かしている仕組みや潜在力・エネルギーの隠喩でもあり、最後のフィナーレの讃美歌は、「マルティチュード」の負けてたまるかの人間讃歌ともとれるかもしれない。
そんなこんなが相まって、実に重層的な『三文オペラ』ワールド、"三文ドラゴン"が出来あがっています。それらすべてを仕切る現場監督のような粘り強くタフな演出家宮田慶子の腕力こそ"ドラゴン"だったか。初日の硬さはあったものの、それがほぐれてパワー全開すれば、もっと楽しく大きな"三文ドラゴン"が蠢く舞台になっていくことでしょう。舞台は生き物、毎日成長変化していく龍です。観てお損はありません、お勧めです。まだ空席はあるようですし、この秋は是非、新国立劇場へ!
(TEXT:谷川道子/『三文オペラ』訳者)