数々の伝説に彩られた作家、ヘミングウェイ。「失われた世代」を代表する作家として、また、釣りや狩りを愛する行動力あふれる作家としてよく知られています。短編から長編までさまざまなスタイルで創作を続けましたが、彼自身がカリスマとして振る舞い、全世界の注目を集める存在でした。そのヘミングウェイが最晩年に書いた小説が『老人と海』です。この作品でピュリッツアー賞を受賞したヘミングウェイは、その2年後にはノーベル賞も受賞します。『老人と海』は中編ではありますが、たいへん深い奥行を持った物語です。老いた漁師が巨大カジキを釣り上げるために3日4晩戦い続けるというシンプルなストーリーですが、読み終わると誰しもが、ある種の沈黙を余儀なくされるような特別な作品なのです。
ヘミングウェイ後期の傑作として名高いこの作品の画期的な新訳が、福田恒存氏の初訳からおよそ60年を経て、ついに光文社古典新訳文庫から刊行されました。
「翻訳者は第二の語り手」は小川さんのモットーだそうです。今回の『老人と海』ではどのような新しい「語り」がなされているのでしょうか。新訳の話題とともに、これまであまり語られてこなかった小川さんの学生時代のことや、翻訳という仕事との出会い、さらには翻訳家としての修業時代のことについてもお聞きしてきました。
------小川先生のご出身は横浜ですね。ロックミュージシャンの柳ジョージに「フェンスの向こうのアメリカ」という曲がありますが、アメリカ文学を専攻なさったのは、やはりもともとそういう文化に親しんでいたのでしょうか?
小川 いえ、がっかりさせてしまうようですが、私は横浜のハイカラな文化を享受してきた人間ではなかったんです。アメリカ文学や英文学をやろうと思いたったのも、そうだな...大学に入ってから2、3年目ぐらいのことですね。大学に入学するまでは、じつはドイツ文学を志望していたんですよ。
------それは驚きですね。どういったドイツ文学の作品をお読みになっていたんですか?
小川 それもドイツ文学が好きというよりは、むしろ音楽への興味とか、ドイツ語の響きが面白いとか、そういう素朴な理由からでした。ただ、受験勉強をするなかで、嫌でも英語の勉強をしなくてはならない。それで大学に入ってみたら、今更ドイツ語を一生懸命やるのも、ということで(笑)。それで英文科に進んだと。ある意味では、極めていい加減ですね。
------なるほど。意外なことでしたが、アメリカ文学がお好きで英文科に、という流れではなかったということですね。
小川 全然そういうわけではなくて、偶然の産物みたいものが多々ありましたね。当時、大学2年で専攻を決めなくてはならず、そこでたまたま出会ったのが、実は今回新訳したヘミングウェイだったんです。それほど深い理解ではなかったと思いますが、わからないなりにある種の力を感じたんでしょうね。自分でわかる範囲で、この作家はなにかすごいなってことを感じ取ったのかもしれません。
そのまま、卒業論文もヘミングウェイを選びました。初期から中期のヘミングウェイがそのころは面白くて、いまでも馴染みがあるのは、『武器よさらば』、あるいは初期の短篇作品でしょうか。ある種の弱さがあるといいますか、マッチョになる前のヘミングウェイ。そっちの方が好きでしたね。
そういったこともあって、当時からインタビュー集とか文献を多く集めていたんですが、その当時読んでいた本が30数年たって、今回の新訳に本当に役に立ったということはありました。
------ヘミングウェイの作品には、初期は素晴らしいものがたくさんあるけれど、後期は肉体的、精神的な不調があいまって、残念ながら文学的な評価はあまり高くありません。『老人と海』は後期の中では、例外的な作品なのでしょうか。
小川 そう思いますね。後期の作品の中では格別に素晴らしいと思います。中編ということもありますが、はじめから終わりまでずっと、緊張感が持続している。やたらと人物を強く見せようっていう、変な色気もないですよね。今回翻訳して、新しく気づいたこともありました。
------新訳の「あとがき」では老人の声の大きさについてお書きになっていましたね。今回、小川先生の翻訳で「出現した」老人像には本当に新鮮な印象を受けました。
小川 はい。 初めて福田訳を読んだときは、リズム感も優れているし、すごいものだなあと思っていたんですが、自分で原文に向き合ってみたときに、やや違和感が残りました。「叫んだ」、「叫んだ」とありますが、いやここは「叫んで」いないのではないか、と。
もうひとつ、原文を読んだときに感じた印象として、音はあまり聞こえてこなかったんですよ。ああこれは明らかに、視覚を優先した話だと思いました。カジキを刺すところなども、必ずしも大音響の効果を意図しているとは思えなかった。
------無声映画に近い?
小川 そう、ちょっとそういう感じがしましたね。スペンサー・トレイシーが出ていた、映画化作品がありますね(ジョン・スタージェス監督『老人と海』1958)。あれを見ても、あまり叫んだりするシーンはでてこないんです。
------なるほど。そうすると、舟の上の老人のイメージがかなり変わってきますよね。福田訳では、サメとの闘いを描いた勇壮な活劇というイメージがありましたが......。
小川 自分にとっても今回、新発見だったんですが、老人の語りは叫びというよりはむしろ、独り言であるという印象を受けました。ですから新訳では、そういう寡黙な老人像を前面に出しました。結果として、老人のキャラクターは、明らかにいままでとは異なるものになったと思います。
しかし、新訳が既訳を全否定するということではないんです。むしろ新訳によって、作品の解釈が変わっていくことを、肯定的に捉えたいですよね。翻訳というのは、ただ訳すだけではなくて、訳者が作品をどう「語る」のかということですので、過去にはあの訳があったが、こんなふうな新しい訳を作りましたと、そういう具合に、それぞれの訳が並立していると考えたいと思っています。そして、日本でこの作品が歴史的にこう読まれてきたんだというように、後の時代の人が受け止めてくれれば、それでいいんじゃないかと。
------もうひとつ、今回の新訳で印象的だったことがあるんですが、小説のラストの少年マノーリンの涙は、老人を「かわいそうだなあ」と思っての涙ではなくて、小さな子が初めて人生に触れたときの泣き方だなと思ったんですね。あの少年の涙は本当に印象的でした。新訳で初めて分かりました。
小川 少年と老人との関係性というか、この老人にとって少年は必要なのだろうか、ということを考えたんです。そのときに思ったのは「あの子がいたらなあ」というセリフは老人の本心、心の声なんですよね。彼にそばにいてほしい、いなくては自分の思考が進まない、ということがあると思う。老人はあくまで思索的な人物なのだなと思いました。
少年についていえば、初期のヘミングウェイの小説に現れる少年像が、マノーリンの中にほんのり見え隠れしている気もするんです。これから人生を知っていかなければならない、入り口に立った少年のイメージで、若い頃のニック・アダムズ(※編集部註:ヘミングウェイの初期短編作品の主人公。複数の作品に登場し、それらのなかで成長を遂げる)の姿と重なるのではないかなと感じました。老人はすでに様々なことを経験してきたのでしょうから、人生について教える側ですけどね。でも教える側にしてもようやく焦りが消えてきたところかな、と。
------ところで、先生はいつ頃から翻訳という仕事を始められたのでしょう?
小川 実は、翻訳家になろうという気持ちが最初から強くあったわけではなかったんです。学生時代には、名の知れた文学作品は当時の一流の人たちが訳しているので、自分などの出番はないなという気持ちもあったんですね。ただ一方で、論文を書くっていう研究者の仕事にもちょっと疑問があって、研究だけが創造的で翻訳がそうでないということにはなるまいとも思っていました。
しかしながらすぐに仕事もないので、普段は授業をしつつ、翻訳にも惹かれつつという状態が何年か続いた。で、あるときに大学院時代の同期だった柴田元幸さんから、仕事を紹介されたんですね。白水社で新しいアメリカ文学のシリーズを出す企画があったんですが、企画がはじまったときに私も誘われて、ひとつやる気があるなら任せるよ、っていうことで。
------幸運な出会いですね。それはなんという作品だったんでしょうか?
小川 ロビン・ヘムリーという作家の『食べ放題』(1993)という作品でしたか。いま思うと、こういう誘いがあったことは、とても恵まれていたなと思います。
これもまた偶然ですが、編集を担当していた人が、私よりは年上ですけれども、当時の私の勤務先だった横浜市大の卒業生でした。だからというわけでもないのですが、それから白水社で2、3度仕事をさせてもらいました。そのあと文藝春秋の翻訳担当の方から声がかかって、しばらくそちらで本を出させて頂いて...。『骨』(フェイ・ミエン・イン、1997)もこのころですね。今思えば、この時期がとてもよい修業になったなと思います。
------そこのところをもう少し詳しく伺いたいのですが、実際にどういう風に翻訳の修業をされたんでしょう? 最近学生さんで、翻訳論をとられている人も多いですが、そういうのではなくて?
小川 うーん、それとは少し違うでしょうね。仕事しないと覚えないでしょう? 人の数だけ翻訳論があるとは思いますし、そのなかでは共通点もあると思うけれども、やっぱり実際に翻訳はやりながら覚えていくものだろうと。
------前に伺ったことがあるんですが、翻訳をしながら、書斎でひとり、ご自分で登場人物の動作をまねてみるそうですね。それを小さかった娘さんがそっと覗いていて、セリフの口真似をしたとか(笑)。
小川 その話、いろんなところでしましたからね(笑)。動作をまねたりしながら、この人は何を考えているんだろうと、一生懸命思い描くということをしているんです。実はそういうことが翻訳する時の、ひとつの勘所じゃないかと思いますよ。
一番大切なことは「訳しちゃいけない」ということだと思うんですね。言葉を移そうとか、置き換えようとしたりすれば、むしろ間違えてしまう。英文を読んで、この作家はこういうことを書こうとしているなっていう声が、自分の頭に伝わったとしたら、ではそれを日本語で書いたらどうなるか、と。それを書くだけなんです。原作の声を大切にするということを念頭においていますね。
------お話を伺うと、翻訳の修業というのは、まず水の中に入って、それから泳ぎを覚えましょうと、そういう感じがしてきますね。
小川 そう、やはり仕事をしながら覚えるものだと思いますね。もちろん、その前提として文法の知識とか、いわゆる読む土台、これはなくてはダメだと思います。読む力ですね。読み込む力。なんでここに冠詞がついてないのか、とか本当にささいなレベルから。
------なるほど。では、今日まで数多くされた翻訳のなかで「これはやりきった」というのはどの作品でしょうか。
小川 実は古典新訳文庫の『緋文字』でした。いや、本当に難しかったです。長さのことも含めて。ある編集者が「先生、これって歌舞伎のセリフを何時間もしゃべるようなのに似ていませんか」と言っていたんですが、まさにその感じで。文体には本当に苦心しましたね。古めかしい感じも欲しい、ある種の格調も残さなければならない、しかしあまり難しい言葉は使えない。ある程度の文体を作るところまではできても、それを維持するのがとても難しかった。
よく、行間を読むと言いますが、こちらは文間を書くとでも言いましょうか、ある一つの文から次の文につなげるということが大事で、その調子をどうやったらずっと維持できるか。ある一定の語りの調子を保ち続けるのがとにかく大変でしたね、ホーソーンは。それが翻訳で一番大事なことだとも思うのですが。
------今回のヘミングウェイとも関連しますが、そういう日本語の表現については、どのように訓練されたんでしょうか。例えば、日本の近代文学から学んだというということはありましたか?
小川 父親の趣味で、子どものころ家の中に吉川英治とか山岡荘八とかそういうのがゴロゴロ転がっていたんです。『徳川家康』(全26巻、講談社)とか、小学校の時に読んでしまったんですよ。今から考えればあの経験が土台かもしれませんね。中学に入ると『三国志』とか『水滸伝』とか、中国文学の古典をおもしろがって読んでいました。
それから、自分が翻訳者として何冊か訳したあとに、言葉が詰まってしまってでてこなくなった時期がありました。この程度の言葉しかでてこないのかと、かなり悩んだんです。そこで、まともな日本語らしい日本語をもっと読まなきゃ駄目だなと思って、藤沢周平や山田風太郎などの本を読んで徹底的に練習しました。翻訳調の文体をほぐす為の解毒剤のようなものとして、意図的にそういう作家の作品を読みました。いや、本当にずいぶんお世話になりましたよ。
------なるほど。小川さんの解説やエッセイの日本語を読んで、いつも面白い文章だなと思っていたんですが、そういう土台があったのですね。翻訳の日本語もやはり、読者を意識されているなと感じます。
小川 やはり読者は常に意識しています。先ほどの話とつながりますが、翻訳者は第二の語り手だと思っているんです。演奏家といってもいいかもしれません。もともと別の作者の物語だけど、それをもう一回語り直す、自分は日本語で語りを引き受けたよ、という感じです。
これはよくいうことなのですが、例えばブロンズでできている美術品を、木を使って作ってみるとか、ピアノの楽曲をオーケストラで演奏してみるとか、翻訳ってそういう仕事だと思うんですね。素材を変えて、こちらで作ってみました。で、結果としてどっちが面白くなっていますかね、ということなんです。ひょっとしたらこっちの方が面白くなっちゃってもいいわけです。でなければ、原作に対する劣化コピーに過ぎないでしょう。これってどこか、ものまね芸人のようではないでしょうか(笑)。でも彼らも、オリジナルにたいして敬意を払ってやっているわけですから、近しいものを感じるんですね。
------昔読んだ作品を、年月を経てまた新訳で読むと、実は作品というものが非常に多面的であるということを感じることもありますね。
小川 はい。ふたたび音楽の演奏に例えれば、この指揮者とあの指揮者、どちらが絶対にいいということではなくて、それぞれの面白さがあると。翻訳でも同じで、どの訳者も誠実に作品に向かっているのであれば、強いて優劣を決める必要はなくて、それぞれが並立すれば良いのだろうと思っています。
翻訳には賞味期限があるという考え方もありますけど、新訳をすることによって、むしろ賞味期限を今の我々が伸ばしてやったらどうだろう、と思うんです。先ほども言ったように、それが後の世代の方々に伝わっていけば面白いなと。
もうひとつ、実は自分は結構ナショナリストな気がしているんです。翻訳って向こうの人が作ったものをこっちに頂いてしまって、こっちの文化の中で成立するものを作っちゃおうというわけですから。海外の文化が好きというより、むしろ日本語作品の豊かさを育てていきたい。まあ、グローバルになれない人間なんだなと思うんですが(笑)。
------最後に、今後の活動について伺えますでしょうか。古典新訳文庫で、今後やってみたい作品はありますか?
小川 基本的に今やっている路線は維持したいので、古典作品、現代作品ともにやっていきたいですね。とりわけ古典には今後も取り組んでいきたいです。古典作品の翻訳は労働量として、2、3倍になりますが、本当に修業になるなと。それから、古典作品の仕事を続けていると、翻訳というかたちで、自分がある種の文学史を編んでいるようにも思えてくるんです。もちろんすべての作家を訳すとまではいかないでしょうが、今後どこまでやっていけるか本当に楽しみですね。
じつは、来年度一杯で大学はやめて、翻訳に専念しようと思っています。『老人と海』の老人ではないですけれど、焦りがでてきてもいるんです。残りの人生、一体あと何年やれるのだろうかという気持ちが出てきたんです。残された時間のすべてを翻訳に費やすことを、本気で考え始めているところです。
(構成:井上遊介)