『ボヴァリー夫人』と並ぶフローベールの代表作『感情教育』の新訳が発刊されました。チャンスです。「優れた小説家」といわれ続けてきたフローベールの作品に触れるきっかけの到来です。
物語のオープニングは、法律を学ぶためにパリに出た青年フレデリックが、帰郷するために乗った船のシーン。そこで彼は美しい人妻アルヌー夫人と出会います。
セーヌ川を進む船上から臨むサン=ルイ島、シテ島、そしてノートルダム大聖堂の光景。乗客たちの様々な姿。水景や人々の姿が手際よく描かれ、そして出会いの時へ。
このささやかな瞬間をスタートにして、二月革命前夜の19世紀パリを背景にした恋物語、歴史物語が大きく展開していきます。
今回は、『感情教育』を新訳した太田浩一さんに、お話をうかがいます。
フローベールが「優れた小説家」だといわれ続けてきた理由について触れ、そして、この小説の「もう一人の主人公」パリの話へ。
そして太田さんが撮影してきたパリの写真も楽しんで下さい。
──太田浩一さんが訳したフローベールの『感情教育』、この(2014年)10月に発行されたのは上巻のみで、当然「あとがき」は付いていません。ということで、今回は「まえがきのあとがき」(笑)という感じのインタビューをさせて下さい。(※下巻は12月発行です)
太田 私が今回「訳者まえがき」で書いたのは、この小説の第一部と第二部第4章(以上が本文庫の上巻となります)の背景をなす、フランス革命をきっかけに起きた歴史的・社会的な状況の変化です。『感情教育』は、恋愛小説であるとともに歴史小説でありますから、背景を知っていた方が、作品を楽しく読めますから。
それからもうひとつ。下巻になると小説の叙述は徐々にスピードを増し、物語は息をもつかせぬテンポで展開していきます。ですから上巻の方だけ読んで投げださないで、辛抱強くつきあっていただきたいという、読者への願いを書きました(笑)。
──「これから『感情教育』の大洋に乗りだす読者が、つつがなく航海を終えることを祈ってやみません」という文末の言葉ですね。
太田 確かに上巻は、波瀾万丈のドラマはそんなに起きないし、割合淡々としていますから、思わず祈ってしまった(笑)。
──しかし、その「割合淡々」が、このフローベールが評価されるところとか。
太田 そうです。この作家は、玄人受けするというか、プロの作家にとりわけ評価されている小説家です。その理由は、19世紀後半の作家だというのに、現代文学に直結するような新しさを秘めた小説を続けざまに発表しているところです。
どこが新しかったのか。それが「割合淡々」に関わるところです。
この『感情教育』を読んでみると、それ以前のフランスの小説とは大きく違っていることに気づくはず。登場人物を見てみましょう。たとえばバルザックの小説の人物とはかなり趣が異なっている。バルザックの物語には、強烈な野心をもった人間とか、超人的な能力を備えた人物が出てきますが、こちらの場合は、どこにでもいる等身大の人物です。この小説の主人公フレデリック・モローにしても、母親が貴族の旧家出身という青年ですが、とりわけ優れているという人物ではない、恋や金銭に悩み翻弄され時に歓び舞い上がる、今の青年と変わらぬキャラクターです。
こうした平凡な人物の波瀾万丈ではない日常をじっくり書いていくという小説は、フローベール以前の19世紀文学の世界では、非常に新しいものだったのです。
──確かに『感情教育』上巻、大きなドラマはありません。......でも読ませます。
太田 そこが現代文学に通じるところ。文学の玄人がフローベールに魅かれる最大のポイントなのです。
──その「まえがき」を読んでページをめくると、1850年当時のパリの郊外図。さらにパリ全体図、中心部の地図が続きます。
太田 時代背景を知っていた方がいいと思いました。当時のパリの地図をざっと把握しておくと、この長編小説はいっそう楽しめますから。
『感情教育』のもう一人の主人公はある意味、パリといってもいいでしょう。
『ボヴァリー夫人』の副題は「地方風俗」になっていて、地方都市が大きなテーマとなっていますが、この小説の場合はパリ。それも執筆当時の1860年代後半のものではなく、七月王政期から二月革命の起きた1848年前後のパリなのです。『感情教育』には「ある青年の物語」という副題が付いていますが、もう一つ加えるとするなら「失われたパリを求めて」という言葉がいいかもしれません。
実は、1840年代のパリと、60年代後半のそれは大きく異なっているのです。この20数年の間に、ルイ=ナポレオンがクーデターを起こし、ナポレオン三世という皇帝となって君臨する。そして彼はオスマン男爵というセーヌ県知事に命じてパリの大改造を行ったのです。
パリ改造の目的のひとつは、汚物にまみれた不潔な都市を衛生的な空間にすることでした。都市空間に光と風を入れるために、込み入った路地を壊し幅員の広い大通りを建設します。凱旋門から放射状に配された12本の大通りも、その時にできたものです。
この道路建設には、ナポレオン三世としては、もうひとつ軍事的な理由もありました。クネクネした道だと民衆が蜂起した際にバリケードを作りやすい。それをさせないために真っすぐで幅広な道路を作ったといいわれています。
──大改造で失われてしまったかつてのパリを精密に復元するというのも、フローベールにとっての執筆の大きなモチベーションだったのですね。
太田 そうです。自分の若き日のパリに強い思いを込めて書いています。しかしノスタルジーに浸ってただ自分の記憶に基づいて書いているわけではありません。
この小説家の特質として、自分の想像のみに頼って書かない、事実に基づいて執筆するということがあります。
『感情教育』では、二月革命が物語のクライマックスになっています。1848年、26歳のフローベールはパリに出て、二月革命を実際に体験していますが、ただ記憶に頼って書こうとはしていません。当時の新聞や雑誌にあたり、歴史書も何冊も読み、さらに自分と同じように実際に革命に遭遇した人々へのインタビューも行っています。そうした上で『感情教育』を書いている。事実を大切にする、これもフローベールの小説作法です。
──この小説が発表されたのは1869年、約20年前のことが書かれているわけですから、当時のフランスの中年以上の読者の中には、事実をよく記憶している人も多かったと思います。
今の私たちでいうなら、1994年くらい、バブル崩壊直後の東京の様子をよく覚えているように、当時のフランスの読者もちょっとウルサカッタのでは(笑)。
ですから、フローベールも二月革命やパリについて、いい加減なことは書けなかったでしょうね。
太田 事実に基づきウラをとって書いています。ですから私の方も1850年代のパリの地図をたえず参照しながら翻訳しました。
この本に載っているのは、その地図を基にして古典新訳文庫の編集部が作ったものです。これがなかなかよくできているのですよ。
──読者の方も、この地図を時々見ながら本書を読んでいただくといいと思いますね。
太田 ええ、事実を大切にした作家の書いたものですから楽しめると思います。
翻訳は地図を見ながら作業をしていたわけですが、完成後の今年の3月、パリに行って小説の舞台を実際に歩いてみることにしました。
たとえば主人公がよく歩く目ぬき通り。本書に載せた地図でいうと、マドレーヌ教会からバスティーユ広場に通じる半円の道が、この物語が展開する時代のパリ一番の繁華街でした。ですから、主人公もよくこのレ・グラン・ブルヴァールという環状大通りを歩いているんです。私も物語の痕跡を探すつもりで、実際に歩いてきました。
──そのパリ訪問では、太田さんは写真も撮影されていて、本書でも数点使われています。
太田 パリのことがわかると、読者がこの小説についてもっと楽しめると思ったからです。
写真は雄弁です。物語に出てくるパリの建物や記念碑を撮影してきました。
──中には、その場所をみつけるのに苦労したものもあったのでは?
太田 本書の522ページに「カトラン十字架」というものを撮影した写真を載せました。
ブローニュの森の中にある交差点に立てられている一種の塔です。フレデリックは学生時代の知り合いシジーが、自分が愛するアルヌー夫人とその夫を侮蔑したことに腹をたて決闘を行うことになります。その決闘シーンに出てくるのがカトラン十字架なのです。小説を読んだだけではどんな形状のものなのか、まるでイメージすることができませんでした。
その場所は観光ガイドの本に出てくるようなところではありませんから、まずGoogleマップで探しました(笑)。ストリートヴューを使って、ブローニュの森の中の道を行きつ戻りつしながら発見し、Googleマップに印を付け印刷し、タクシーの運転手に渡して、そこに行ったのです。それがこの写真となります。
──アグレッシヴな翻訳家ですね〜(笑)。掲載されている写真以外にも、パリの風景を撮影してこられたと思うのですが、太田さんはどんな風景が好きなのですか?
太田 やはりセーヌの流域でしょうか。
──何度か行かれていると思うのですが、最近のパリはいかがですか?
太田 80年代中期から行っていますが、最近のパリは自転車が増えましたね。貸し自転車なんかも盛んになっています。
──パリ市が運営している公共自転車システム「ヴェリブ」ですね。それからこの都市は自転車専用道路を設置したり、電気自動車のカーシェアリングシステムを導入しています。19世紀後半にパリの大改造が行われたのですが、21世紀初頭、パリはエコを意識した交通大改革を行っているようです。
──太田さんは、福武文庫で1991年に、フローベールの晩年の短編集『三つの物語』を翻訳出版されています。
太田 はい。私は大学の卒論がフローベールなのです。若い頃から好きだったこの作家の翻訳をずっとしたいと思っていたところ、運よく福武書店の編集者に出会い、その夢がかなったのです。これが翻訳家としての最初の仕事となりました。
──太田さんは、フローベールを訳す翻訳家とともにもうひとつの顔ももっておられる。ボワロー=ナルスジャック『めまい』(パロル舎)など、ミステリー翻訳の仕事もしているのですね。
太田 あれはヒッチコックの映画「めまい」の原作の小説ですね。なかなかの傑作です。ミステリーでいうと、数年前に、エミール・ガボリオ『ルルージュ事件』(国書刊行会)を出しました。これは1866年にフランスで発表された世界初の長編ミステリー小説です。
──それ、読みたくなる本ですね。その他、太田さんはミステリーについての文章も書いています。
太田 白水社のフランス文化とフランス語をテーマにした雑誌「ふらんす」で、2004年からのべ3年間にわたって続けていたフランス・ミステリーをテーマにした連載がありました。カトリーヌ・アレーの『わらの女』(創元推理文庫)やアルベール・シモナン『現金に手を出すな』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)などについて書きました。
──それでは最後に、『感情教育』下巻の予告編的なお話を。
太田 下巻の幕開けは第二部第5章から。つづく第6章で、主人公は愛する女性と逢い引きの約束をとりつけるのですが、それが果たせぬまま、物語はいよいよ最大の山場を迎えます。第三部・第1章、二月革命が描かれるパートです。先にも話したように、フローベールは実際に体験した争乱を詳細に描いています。事実を大切にする、この作家の小説の書き方をじっくり楽しんでいただきたい。
それが終わると、物語展開のスピードはアップして2章、3章へ。少しだけ教えてしまいますが、フレデリックの前に、また新たな恋の相手が出現します。恋愛の対象が増えたこともあり、物語は急展開。そしてラストの4章では思いがけないことが立て続けに起きます。それまで読んできた読者には意外な展開だと思うでしょう......。
──「割合淡々」じゃないですね(笑)。
太田 下巻を楽しみにしていて下さい。
──はい。12月の刊行時にまたインタビューをさせて下さい。今度は本当に「あとがきのあとがき」ということで。
(パリ風景写真、撮影はすべて太田浩一氏)
(聞き手 渡邉裕之)