『狭き門』は、愛と信仰の相克を描いた物語として、ずっと読まれ続けてきた作品です。
主人公であるジェロームは、美しい従姉アリサに恋心を抱きます。彼女もまたジェロームに愛情をもち、周囲の人々も二人の愛が成就することを願うのですが、しかしアリサはジェロームとの結婚に、ためらいをもちます。
神の国にあこがれをもつ彼女は地上での幸福をあきらめ、遂に……。
ある意味理不尽な展開をするこのラブストーリーが、多くの人に読み継がれてきたのは、やはり作者アンドレ・ジッドの才能によるものだと思われます。
今回は、『狭き門』を新訳した中条省平さんにお話を聞き、才能あふれるジッドの小説の書き方や、この愛と信仰の物語の根幹にある特異な神のあり方などについて語っていただきました。
また、中条さんは優れた映画批評家としても活躍されている方です。そこで『狭き門』に関わりつつ映画についても語っていただきました。
ここでお断りしておきたいのですが、ロベール・ブレッソン監督の映画作品「ラルジャン」、「罪の天使たち」が話題になり、それぞれの結末が語られています。
これはインタビュー構成者として、『狭き門』の主題とも関わる大切な話と考えたからです。これらの映画を未見の方はご理解下さい。
映画を語りつつ、この小説の根元に触れていきます。
──中条省平さんがお書きになった今回の『狭き門』の「解説」には、「物語年表」が付いています。この作品は、確かに時間的な流れが掴みにくい小説です。物語の理解を手助けするため、小説の中で起きた出来事を時間順に並べた年表なのですね。
年表は、さりげなく置かれているのですが、「小説的才能あふれるジッド」の時間操作の技が感じられるものでした。小説の流れの順番で事態が語られたから、感動できたのではないかと思えてきたのです。
「物語年表」を作った視点から、小説家ジッドの書き方について語っていただけないでしょうか?
中条 最初は、読者のためというよりも自分自身のために作った「物語年表」でした。何度読んでも時間的な流れがどうもしっかり掴めない。それで翻訳者として間違いがないようにメモをしていって作ったのです。しかし、どうしてもうまくいかない。というより、おかしいところがいくつも見えてくる。たとえばアリサの誕生日、あるところではクリスマスカードを送ってきたジェロームに対して、私の誕生日が近いと書いている。しかし別の箇所では誕生日として5月の日にちが記されている(笑)。その他、時間的な流れでおかしいところはいくつもあります。
そこでわかってきたのは、ジッドは客観的な構成図を作ってこの小説を書いているのではない、ということです。ミステリー作家は時系列的に事件を細かく把握していき、どこからつつかれても不備がないように構成していく、こうした小説の書き方とは違って、ジッドはロマネスクな流れに身をまかせて、いわば本能的に小説世界を構成しています。だから「物語年表」にしてみれば矛盾が出てくる。しかし、ほとんどの人がこれを問題視しない。
しかもこれは『狭き門』ですよ(笑)、ものすごい数の人たちに読まれてきた小説です。それなのに、ほとんどの人がそのおかしさに気づかない、これはやはり彼は自分が書きたいように書いていると、いつのまにか小説空間ができあがってしまう作家だからです。かなりいいかげんな時間構成を、われわれに不自然ではないと思わせる、内的な時間の統一性を自然にできる才能をもった小説家、それがアンドレ・ジッドなのです。
──この小説の後半部では、アリサの日記が導入されて、それまでのジェロームの間で起きていた事柄がまた違った形で語られます。しかし、その語られ方がよくある「もうひとつの視点で語られたもの」とは違っている。ここににもジッドの才能を感じました。
中条 普通、あの手法を使うなら、ずっと男の視点で語った後、アリサの日記で全部ひっくり返すということをしますよね。「実はこうだったんだよ」というミステリー的手法です。しかし、ジッドはそんなことはしない。
アリサが語っているところもあるけど語っていないところもある、ジェロームとアリサの見方が微妙にズレたり重なったりしている。
ジェロームの側から見るとこうなる、アリサから見たらこうなる、でもどちらかが正しいのではなくて、それぞれが補完しながら、しかも尚、二人の視点から抜けて落ちてしまう部分もある。
後にジッドは、真実の相対性を主張し、それに沿った実験的な小説『法王庁の抜け穴』や『贋金つくり』を書きました。時を経てヌーヴォー・ロマンの作家たちがそれを評価し、彼等は真実は見る人によって違っていくという小説を書いていく。
しかし、この『狭き門』でのジッドは、それほど意識的ではない。様々な視点を提供して読者を驚かせてやろうという意図もないし、真実の相対性というお題目があるわけでもない。それぞれの登場人物たちに添っていくと、そういう世界が見えてきた、ということを、ジッドは本能的な形でやっているだけです。
だからこそ読者は、アリサの日記の導入に、何か他の小説とは違う、ただならぬものを感じるのではないでしょうか。
──次に、この小説の読まれ方についてお聞きします。『狭き門』は愛と信仰の物語として読み継がれてきました。とりわけ日本では、信心深い女主人公の生き方を感慨深く受けとめた読者が多かったのだと思います。
しかし中条さんは「解説」と「あとがき」で、「『狭き門』における信仰は愛より小さな問題にすぎない」という考えを書いています。なぜ、そのように読むようになったのですか?
中条 僕も愛と信仰の対立を描いている小説だと思って読んでいました。しかし、なんだか腑に落ちない。ジッドの友人である詩人のポール・クローデルの言葉を読んで、その理由がわかってきたのです。クローデルは、神の恩恵や死後の救済を期待しないアリサの一見禁欲的な信仰は、むしろ神に対する冒涜なんだ、これでは神が残忍な無言の拷問者になってしまうとジッドに対していっています。
確かに、この物語に出てくる神は特別です。249ページ、アリサはその日記の中で「わたしからすべてを取りあげた嫉妬深い神さま」と書いている。つまり与えることをしないで奪っていくだけの神なのです。
251ページの言葉は「あなたがわたしを絶望の淵に沈めたのは、この叫びを引きだすためだったのでしょうか?」まさに絶望に淵に人を追いつめていく神がいる。
253ページにある「ああ神よ、なんぢ我をみちびきてわが及びがたきほどの高き磐にのぼらせたまえ」。これは聖書の「詩編」からの引用ですが、元の文を読むと、そんなにも神様は酷いものではありません。試練を与えるけれども許す部分ももっているのです。でも、アリサの手記にかかると試練を与えて処罰する神しか出てこない。
どうもこれはキリスト教本来の神ではないのではないか。カトリック教徒であるクローデルは、そこを強く受けとめて批判の言葉を投げたのです。
日本人が、『狭き門』を愛と信仰の物語といわれて、すんなりと受けとめてしまったのは、やはりカトリック的な信仰がわかっていなかったからだと思います。
この小説でジッドが行おうとしたのは、愛というのはどこまでいくのかを突きつめて考えることでした。それは、「解説」でも書きましたが、妻であるマドレーヌとのことが深く関わっているでしょう。彼の結婚生活は複雑な問題を抱えていた。だからこそジッドは考え続けていました。愛というものがあって、それは人間を完全に結びつけるのか。愛が成就して結婚をしたとしても、それが相互理解に結びつき二人は幸福になれるのか。ジッドが考えてきた愛について、この本には非常に難しい微妙な問題が表現されています。
そのうえで、結婚以降の矛盾を含んだ愛ではなく、それ以前の本当に「いと美しく清きもの」としての愛を書き残しておきたかった。それは小説でしか可能ではない、そうジッドは思ったのではないでしょうか。
──しかし、ジッドのその愛への思いも、中条さんの実際のジッド夫妻の結婚生活にも触れた「解説」を読むと裏があるようで、なかなか一筋縄ではいかない人ですね。しかしながら、アンドレ・ジッドは日本で多くの人に愛されてきた作家でした。戦前から多く読まれ、全集なども出されてきました。そして戦後まで人気は続きます。どうしてジッドはこんなに人気があったのでしょう?
中条 圧倒的に読まれているのは、『狭き門』と『田園交響楽』それに『背徳者』なんでしょうね。
一般の読者にも近づけるような恋愛をテーマに、人間の繊細な心理を扱い、しかも小説として面白く書くというところが、多くの読者に受けた理由でしょう。さらにジッドは、こうした小説を読む人にも読まない人にとっても、ヨーロッパを代表とする知性として存在していました。
ファシズムの時代にはファシストと闘い、ソビエトに行ってもしっかりとスターリン批判をする、またカトリック社会のただ中でキリスト教批判をした。今ある体制的なものと常に闘う筋金入りの知識人として、ジッドは崇めたてまつられていました。
ヨーロッパの思想や社会、文化を考えるのに、ジッドを読まないと話にならないというところがあったのです。
そのことを知ったのは、恩師である小説家・辻邦生さんの青年期の日記を読む機会があったからです。1951年のジッドの死を彼は大きな衝撃として受けとめています。そのような言葉を日記に記しているのですが、これほどの人としてジッドは認識されていたのかと深く感じました。
ヨーロッパの市民社会を代表する偉大な知識人、一方ではポピュラリティのある恋愛小説を書ける作家。これが人気の理由だったと思います。ポイントは知性を体現しているカリスマ的存在だったということです。ですから、ジッド本人が死ぬことで、その人気は必然的に冷めていったのです。
──中条さんは、映画批評家としても活躍されています。本を読むときも何か映像的イメージをもつのかと勝手に考えました。そこでお聞きしたいのですが、この『狭き門』を映画でいうなら、どんな作品をイメージされますか?
中条 基本的に僕は、本を読む時、映像をイメージするようなことはしません。ですので、この本もそんな風には読んでいなかったのですが……ただ、そうですね……『狭き門』には哲学者パスカルの名前が出てきます。これはその登場が納得がいく人物なんですね、というのは、彼はジャンセニストとして知られているからです。ジャンセニスムとは、カトリック教会によって異端視された思想で、とても簡単にいってしまうと、人間の救済と地獄落ちはすでに決まっていて、それは神様だけが知っているという考え方です。
それを突き詰めていくと、人はどんなに努力してもダメだ、神が既に決めているのだからということになる。この小説もどこかで、われわれはどんなにがんばっても運命は変わらない、救済も確実ではないといっている節がある。ジャンセニスムに近い考えの小説なのでは、と。
それで映画の話になります(笑)。映画界でジャンセニスムの考えを突き詰めた人が、フランスの映画監督ロベール・ブレッソンです。彼の作品には、人間どんなに頑張っても悪くなる奴は悪くなるという身も蓋もなさがある(笑)。
彼の遺作は「ラルジャン」という映画で、トルストイが原作です。この小説は、善良な老夫婦に世話になった男が、結局はその老夫婦を殺し、第二部では、その男が更生するというものです。しかしブレッソンの作品では、第二部がない残虐な殺しの場面で終ります。
ブレッソンの作品は冷徹に人間の運命をみつめているところが特徴です。この『狭き門』にもそういうところがあり、この映画監督を思い出したのでした。しかし「ラルジャン」ほど厳しいものではありません。この小説にはどこか牧歌的な優しさもある。
そういうことでいうと、『狭き門』を映画でいうなら、初期ブレッソンのイメージです。
──といわれても、わかりません(笑)。ブレッソンの作品はなんとかイメージできますが、初期といわれても......。
中条 後でDVDをお貸ししましょう(笑)。初期、中期の代表作、そして遺作の「ラルジャン」でいいですか?
ブレッソンの一番初めの長編作品に「罪の天使たち」があります。罪を犯した女が修道女に引き取られる。修道女は彼女を更生させようとするのだけど死んでしまう。これもやはりダメだった(笑)という感じの映画なんですが、しかしこちらは「ラルジャン」に比べて優しい感じがあるんですよ。女性同士の話だしロマネスクな膨らみもあって。ラストも救済の可能性をうっすら匂わせています。
『狭き門』は、後期の、すべてを削ぎ取っていく厳しいまなざしのブレッソンではなくて、初期の「罪の天使たち」みたいな優しさをもった作品に似ています。この小説の最初の方で描かれる自然はとても優しげで、僕はそのあたりが大好きなのです。
──映画の話が出たところで、せっかくですから、中条さんが最近見て印象に残った映画について教えて下さい。
中条 クリント・イーストウッドの「アメリカン・スナイパー」とゴダールの「さらば、愛の言葉よ」ですね。両者とも今年85歳、それぞれの作品です。
イーストウッドの作品の迫力たるや、彼のフィルモグラフィーの中でも一番ハードな戦闘シーンが含まれていると思います。主人公は100数十人を殺してきた実在のスナイパー。舞台はイラク戦争、ブッシュ政権下の戦争ですから、アメリカ万歳の映画かと思う人もいるですようが、まったく違います。スナイパーが殺戮を繰り返していく中で、人間として壊れていくのを描いた映画です。
見終わった後、体が痛くなっていることに気づきました。まれにみるハードな映画で、緊張して見ていたんですね。
かたやゴダールの方は、キャノンのスチルカメラで撮っている作品です。動画機能を使っているのはいいのですが、それを2台同時にまわして、なんと3Dにしています。3DといってもアクションでもSFでもないので、われわれにとって未知の映画になっています。一番感動的なのは犬(笑)。今まで見たこともない犬が見れます(笑)。
いい方をかえれば、8ミリカメラをもらった子どもが、やってみたいことをすべてやっているような映画ですね(笑)。物語は、ある夫婦が仲が悪くなり、若い男がやってきて、女房がそいつと浮気をする。二人で逃げたところに夫がやってきて......物語はほとんどないです(笑)。
モネが睡蓮を描く時、みんなと同じものを見ているのに全然ちがうものとして描いた。「さらば、愛の言葉よ」を見ていて、そんな絵画史のエピソードを思い出しました。これと同じようなことをゴダールは、映画で、絵筆の代わりに日本のスチルカメラを使って行っているのです。
──最近出した本についてお聞きします。中公文庫で『恋愛書簡術』が出ましたね。
中条 文学者の恋愛書簡を中心にしたミニ評伝集です。2011年に中央公論新社で出した本の文庫版です。登場する作家はアポリネールにエリュアール、バルザックにユゴー、そしてドビュッシー、日本では内田百閒に谷崎潤一郎です。
略奪愛、ダブル不倫、遠距離恋愛そして倒錯(笑)、色々とあります。そのラブレターには文学者ならではのレトリックがあり、そして人間性が出ています。大作家がこんなことまでいって女を口説いているのか……思わずツッコミを入れています(笑)。楽しく読める本になっているのではないでしょうか。
※『恋愛書簡術 古今東西の文豪に学ぶテクニック講座』(中条省平著、中公eブックス)
──これから出す本について教えていただけますか。
中条 ちくま文庫で『COM傑作選』という本を上下二巻で出す予定です。「COM」は手塚治虫が出した漫画雑誌(1967~1971)。手塚の代表作「火の鳥」、石森章太郎「章太郎のファンタジーワールド・ジュン」という素晴らしい実験的な漫画、永島慎二の「フーテン」という一世を風靡した作品。こういった三大漫画の他にも次々と優れた漫画が生み出されました。その中から僕が選んだもので、若き日の山岸凉子、竹宮恵子なども登場します。また、この雑誌は漫画に関する評論家も育てました。ここから出てきた人たちに草森紳一、小野耕世、峠あかね(漫画家・真崎守の別名)などがいます。その評論も載せる予定です。
それから近々ということではないですが、この古典新訳文庫で、フランスの幻想文学作家マンディアルグの翻訳を出そうと思っています。彼の最後の長編は訳しているので、それに短編を加える予定です。晩年の短編集が二冊あるので、そこから数篇選んで訳し、「マンディアルグ晩年傑作集」ともいうべきものを出そうと考えています。
──楽しみにしています! 今日はどうもありがとうございました。
中条 はい。今から、お貸しするブレッソンの作品をみつくろって来ますね。
*
(ということで、ブレッソンの3作品を中条さんからお借りしました。初期作品として「ブローニュの森の貴婦人たち」、中期は「バルタザールどこへ行く」、そして遺作の「ラルジャン」。
感動したのは「バルタザール」でしょうか。その名をもつロバの受難劇。ロバをいじめる悪い人は、やはり最後まで悪人なのでした)
(聞き手・渡邉裕之)