2015.04.22

〈あとがきのあとがき〉内村鑑三が書く英文テキストは、どんな英語なのか 『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』の訳者・河野純治さんに聞く

cover206_obi_atogaki.jpg2015年3月の新刊は、明治大正期を代表するキリスト教思想家、内村鑑三(1861-1930)が書いた『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』。
『余は如何にして基督信徒となりし乎』という題名で知られている本です。

この本は、内村の日記を基に綴った若き日の自伝。武士の家に生まれた内村が、札幌農学校に入学、そこでキリスト教に改宗。その後にアメリカに渡り、働きながら大学で信仰を深め、神学校で学んだ後、帰国するまでのことが書かれています。本書は1895年に日本そしてアメリカでも刊行。内村は最初からアメリカでの出版を想定し、そのため原文は英語で書かれています。

今回の新訳で見えてくるものは「内村くん」と思わずいいたくなる若き明治人の姿。素朴で無鉄砲で、そして思い悩む青年の姿が赤裸々に描かれています。

新訳を手がけたのは、ノンフィクションを多く訳している翻訳家、河野純治さん。インタビューの前半は、内村の英語がどんな英語なのかを河野さんに語っていただきました。そして後半は「いかにして翻訳家になったか」についての話となります。

真面目に生き、真面目に改宗の実態を書くということ

──『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』を訳していく中で、内村鑑三について色々と感じたことがあると思います。いかがですか?

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内村鑑三。1912年、52歳の時の
ポートレート(三島常磐撮影)。

[提供:内村鑑三記念文庫デジタルアーカイブ・転載不可]

河野 印象的だったのは、彼がキリスト教徒になる前に、神道や仏教を真面目に信じていたということです。

「ぼくが最も崇敬し、崇拝していた神は、学問と手習いの神だった。毎月二十五日はしかるべき儀式と捧げ物でその神を手厚く祀った。ぼくはその象の前にひれ伏し、書が上達しますように、記憶力がよくなりますようにと熱心に助力を願った」と書いていますし、また、神社の前を通るたびに、必ずお祈りをし、それぞれの神様にふさわしいお願いをするんですね。キリスト教入信とその後の信仰生活のベースには、この真面目さがあるんだなと思いました。それがあるから、あれほど熱心にキリスト教を信仰できたんでしょうね。

──とはいっても、入信のきっかけを真面目といっていいのか......。事実は凄まじいですよね。

河野 無理矢理入信させられたというのが事実ですからね(笑)。内村が札幌農学校の1年生になった時、すでに上級生は、あの「少年よ大志を抱け」のクラーク先生によって全員がキリスト教に改宗していた。先輩全員です(笑)。その上級生たちが一年生をキリスト教徒にしようと「嵐のように襲いかかって」くるという、凄まじさです。その中で彼は改宗する。

──あの内村鑑三ですから、もう少し劇的なキリスト教との出会いを想像していましたが、それがまったくない(笑)。

河野 彼は書いています。「ぼくのキリスト教への第一歩は、意志に反して強制されたものであり、白状すると、それはぼくの良心にも反していた」。

馬鹿正直なくらい正直に告白しています。まあ、この正直さが、本書の魅力なんだと思います。

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1879年頃に撮影した札幌農学校信徒たちの集合記念写真。
[提供:内村鑑三記念文庫デジタルアーカイブ・転載不可]

──西欧の近代社会に参入する明治人の実体が描かれています。

河野 日本人としての信心深い暮らし、その後の熱心なキリスト者としての信仰生活のベースにある態度、さらにその改宗の実体を正直に書くこと。内村は真面目な人なんだと思います。歴史に残っている人って真面目だと改めて思いました。

──今回の新訳は、この文庫でも特別です。日本人が書いた英語の本を訳すということですから。内村鑑三の英語はいかがでしたか?

河野 最初の印象は、読みやすい英語だなというものだったんですよ。しかし、読んでいくとやはり明治の人の英語だなと思いました。自分の頭で考えた「日本人英語」があるし、それから引用文がけっこう多い。しかも出典が書いていない。それが誰の言葉なのか、探したり推理したりするのが、今回の翻訳の大切な作業になりました。

例文として、次の文章を持ってきました。

第三章は、初めて仲間たちとつくった教会の活動を書いていますが、そこに仲間たちを紹介するところがあります。そのあたりの文章です。

内村は、札幌農学校の寮生活をしながら、教会活動を開始します。その時、彼等は「人々の前で自分はキリスト教徒だと告白するからには、同時に洗礼名を用いるべきだ」と考えて、パウロとかヒュー、フランシスといった名で呼び合います。ちなみに内村はヨナタンといいます。

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内村たちが初めて創設した教会、札幌独立基督教会(1882年)。
[提供:内村鑑三記念文庫デジタルアーカイブ・転載不可]

そして第三章の51ページ、フランシスという洗礼名の宮部金吾を紹介するところがあります。この宮部、後に植物学者になった人です。今日持ってきたテクストは、フランシスの紹介部分です。

Francis had the roundest character among us, with "malice toward none, and charity toward all." "He is naturally good," we used to say, "and he need not exert himself to be good." His presence was peace, and when the incipient church was on the point of dissolution on account of personal animosities or odium theologicum among its members, he was the cynosure around which we began to revolve once more in peace and harmony. He turned to be the best Botanist in the country, and as a Christian layman his service has always been invaluable in the advancement of God's kingdom among his countrymen.

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1883年頃の写真。右から内村、そして宮部金吾、
左端が新渡戸稲造となる。
新渡戸は後に教育者・思想家となる。著作に『武士道』がある。

[提供:内村鑑三記念文庫デジタルアーカイブ・転載不可]

まず、ひっかかったのは、最初にあるthe roundest character という言葉です。roundは、「丸い」という意味があるから宮部は丸顔なのかなと思ったんでよ、それで彼の写真をネットで調べてみると、ぜんぜん丸顔じゃない(笑)。

現代英語だとround character は、「立体的人物」といったような意味で、小説などに出てくる、背景やその性格が詳細に書かれた人物のことなんですね。宮部は実在の人物ですから、それも違うなと思って、岩波文庫の『余は如何にして基督信徒となりし乎』(鈴木俊郎訳)を見てみると「円満」と訳している。僕も踏襲しましたが、the roundest character は「日本人英語」ですね。「円」だからroundを使ってみようと内村が考えてつくった英語だと思います。

こういう「日本人英語」がところどころにあるんですね、後で考えると面白いのですが、訳している時は頭をひねりぱなしでした。

それからthe roundest character のすぐ後にある" malice toward none, and charity toward all." という言葉。これはクォーテーションマークが付いているから、何かからの引用であることはわかるのですが、出典が書いていない。内村はたいへんな読書家で、そこから引用した文章をいっぱい使って文章をつくっていく。しかし学者じゃないから、誰の言葉であるかと銘記していないことが多い。これもその一つです。

調べて見るとアメリカの大統領、リンカーンが1865年に行った演説の一節でした。南北戦争に勝った後、大統領に再選し就任した時の演説です。自分たちは、南北に分かれて闘ってきたけれど、これからは「悪意を持たず、互いに慈愛の心を向け合って、国を建て直していこうよ」というところで使っているmalice toward none, and charity toward all という言葉です。それを内村は、宮部の性格を説明する言葉として「誰にも悪意を抱かず、誰にでも慈愛の心を向ける」奴なんだよと使っている。

──大統領の就任演説の一節を友人紹介の言葉として借用しているわけですね。

河野 そうです。リンカーンは1809年生まれで、初めて大統領になった年の1861年に内村は生まれていますから、まあ、同時代の人ですよね。同時代のアメリカの偉人の言葉を読み、実際に使ってみたんでしょうね。こういう引用を内村は、この本でたくさんしています。時に出典の明記なしに(笑)。

これが日本人英語と出典なしの引用文の例です。先の英文テキストを僕はこのように訳しています。読んでみて下さい。

「フランシスはぼくらの中でいちばん性格円満で、「誰にも悪意を抱かず、誰にでも慈愛の心を向ける」ような男だった。「あいつは生まれつきの善人だ」と、ぼくらは言っていた。「だから善人になるのに努力する必要がないんだ」。その物腰は穏やかで、始めの教会が、会員間の個人的な反目や神学者同士の憎み合いのせいで解散の危機にあったとき、フランシスが北極星となり、ぼくらは平和と調和を取り戻して、その周りをふたたび回りはじめたのである。のちには、わが国最高の植物学者となった。キリスト教の平信徒としての彼の貢献は、わが国に神の王国を広めるうえで、つねに計り知れないほど貴重なものとなっている」

──引用元を調べるのはネットを使って行うのですか?

河野 はい、その文章を検索エンジンにかけて調べていきます。やはりよくわからない文章があって、検索してみると、札幌農学校の図書館に所蔵されている当時出版された書物のタイトルをヒットしたことがあります。ああ、内村はアメリカで発表する文章を書く時に、学生の頃、読んだ本のタイトルを使ったのかと思いました。

──内村の引用文は、伝達すべき誰かの意見の他にもうひとつ、自分の意見を英語で表現するために借用した言葉という意味もあるのですね。彼は読書家だから、借用したのは本の言葉が多く、それだから現在のデジタル技術で検索されてしまうのでしょう。

そして、最大の引用元はもちろん聖書となります。明治時代の日本の青年が聖書から借用した言葉を使ってアメリカで生きていく。本書では、入信と同じように、その様子がリアルに書かれています。あまりにリアルだから批判もしたくなる箇所もある。

今回、この文庫には社会学者、橋爪大三郎さんが書いている「解説」が付いています。そこで橋爪さんは、彼の生き方を踏まえ、その聖書理解、キリスト教信仰を批判的に書いています。

河野 厳しい文章です。橋爪さんはこう書いています。

「本書の題名『いかにしてキリスト教徒になったか』とうらはらに、内村鑑三はキリスト教徒に、なりそこねたのかもしれない。では、どうなったか。内村は、『日本流キリスト教徒』になった」

この明治の「日本流キリスト教徒」が時代とともにどうなっていくのかも「解説」では書かれています。

──そのどうなるかは、実際に手に取って読んで欲しいですね。日本の近代化の問題点となるところが書かれています。橋爪大三郎さんの「解説」、辛辣ですけど、たいへん重要な内容です。

ぼくはいかにして翻訳家になったか

──さて、今度は河野さんに「ぼくはいかにして翻訳家になったか」ということで聞きたいと思います。河野さんは、現在、主にノンフィクション系の翻訳家として活躍していますが、この職業を意識したきっかけを教えて下さい。

河野 大学受験の時、英語の勉強に役立つだろうということで「翻訳の世界」(バベル)という雑誌を購読していたんです。面白い雑誌で気に入っていました。その最後の方のページに、翻訳の課題が出て、読者がその英文を訳して投稿するというコーナーがありました。僕も投稿しましたが、ぜんぜんひっかかりませんでした(笑)。

まあ、その雑誌によって翻訳家になりたいなと思ったわけです。大学は明治大学の法学部に入学。翻訳家の夢はもっていましたが、夢は夢として就職をしました。中学生に教える進学塾の講師になったのです。難関校を目指す塾ですから、教える英語は大学受験並、こちらもかなり勉強しないといけないというものでした。そこで十数年続けましたが、中学生相手に自分の知識を分かりやすく伝えるということをし続けてきた経験は、今の翻訳の仕事に非常に役立っていると思っています。

2000年代になって景気が悪くなり、進学塾にも生徒が集まらなくなってきました。これは大変だ、「これからどうする?」となった時に思い出したのが、翻訳家になる夢でした。それで翻訳学校に入ったわけです。フェロー・アカデミーです。翻訳家の田村義進先生、越前敏弥先生にお世話になって翻訳の勉強をしました。

──最初の翻訳の仕事は何だったのですか?

河野 『青いドレスの少女』(シェリ・ホールマン DHC)というミステリーです。次に、田村先生の紹介で早川書房から『迷宮の舞踏会』(ロス・キング)を翻訳しました。それからフリーの編集者を紹介してもらって手がけたのが光文社の『アルジャジーラ 報道の戦争』(ヒュー・マイルズ)でした。

──これが、ノンフィクション系翻訳家の出発点ということになりますね。どんな本なのですか?

河野 2001年、アメリカがアフガニスタンに侵攻します。その時の報道で注目された放送局、アルジャジーラについての本です。オサマ・ビンラディンのメッセージ映像を独占放送するなどして知られるようになったアルジャジーラは、さらに2003年のイラク戦争ではイラク市民の戦争被害の様子を流すなど、欧米メディアではできなかった報道を行いました。そしてアルジャジーラは中東側からも欧米側からも叩かれました。逆にいえばどちらにも偏っていないメディアということになります。この本の著者はイギリス人ですが、欧米にもアラブ側にも立っていない中立的な書き方をしています。そこがアルジャジーラという対象に合っていて、非常に興味深い内容になっています。中立性がポイントの本だと思います。これがけっこう話題になり、書評でも多く取り上げられました。そのこともあってノンフィクション系の本の仕事をするようになりました。(『アルジャジーラ 報道の戦争 すべてを敵に回したテレビ局の果てしなき闘い』ヒュー・マイルズ著 、河野純治訳、光文社、2005年)

──以降は、ノンフィクション一直線ですよね。

河野 ムンクの作品『叫び』の盗難事件を解決したイギリスの捜査官の話『ムンクを追え』(エドワード・ドルニック 光文社)、それからイスラエルの情報機関モサドの長官だった人物の回顧録『モサド前長官の証言「暗闇に身を置いて」』(エフライム・ハレイヴィ 光文社)、白水社では『アフガン侵攻1979-1989』(ロドリコ・ブレースウェート)、ソ連の軍事介入の実体ですね。こうした本を翻訳させてもらっています。

──ノンフィクション翻訳で気をつけていることは?

河野 事実に基づいたテキストですから、書かれていることが間違っていないかをきちんと調べることがポイントになります。原文を尊重しつつ、その作業を行っていきます。だから資料を集めることが重要ですね。

それと、翻訳一般にいえることですが、読みやすさには気をつけています。中学生でもわかるくらいの文章にするということは、いつも念頭においています。その時に、先にいった進学塾での経験が生かされていると思っています。

──最近は、翻訳学校でも教えているのですね。

河野 ええ、週1ですけど、勉強した学校で今度は教師になっています。課題を出して生徒たちに訳してもらい、それを講評していくという授業です。

──翻訳を勉強している人たちに、どんなアドバイスをしているのですか?

河野 基本的にいっているのは、「たくさん本を読んで下さい」ということです。たとえばミステリーにはミステリーの言葉遣いがあります。それは、教わるより読むことで獲得できます。英語の本も日本語の本も、とにかく読むこと。そのジャンルの言葉を覚え使えるようになることは翻訳にとって大切なことです。僕は翻訳学校で勉強をしている時、かなりの本を読みました。

──内村鑑三のように。

河野 ええ、内村青年のように本を読み、そこで覚えた言葉を使ってみていました。「いかにして翻訳家になったか」のポイントは、本を読むことですね。

──近々、出版する本のことを教えて下さい。

河野 2012年、中国の人権保護活動家の陳光誠が北京のアメリカ大使館に駆け込み、渡米したことを覚えていますか。その陳光誠の自伝を、白水社から出す予定です。
(聞き手・渡邉裕之)


ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか

ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか

  • 内村鑑三/河野純治 訳
  • 定価(本体 1,080円+税)
  • ISBN:75307-8
  • 発売日:2015.3.12