ロシアの文豪ドストエフスキーといえば、『罪と罰』など暗く重たい長編小説が有名ですが、本書に収められた4つの中編・短編は、どれもせつないながらも明るさが感じられる作品です。
『白夜』はペテルブルグの夜、偶然に出会った空想家の青年と少女を描いた小品。白夜の街角で語り合う二人の姿が映像作家たちを刺激するのか、4度も映画化されています。『おかしな人間の夢』は、自殺を決意した男が、どこかの惑星にある理想社会を夢で見て、自殺をとりやめる話。そればかりか、男が人を救うために行動を開始するという希望ある結末が。
本書では、こうしたドストエフスキーの長編とは違った側面を読むことができる中編・短編に、「一八六四年のメモ」というテクストが付いています。1864年4月、ドストエフスキーは、最初の結婚の相手であるマリヤを亡くしました。その遺体を前にして綴ったというメモ。これは短いながらも、作家の真髄が記された重要なテクストです。
今回は、本書を翻訳した安岡治子さんに、お話をお聞きしました。ドストエフスキーの中編・短編の魅力から、この作家の思想の根底にあるロシア正教の特性まで、色々と質問をさせていただきました。
19世紀のロシア文学というのは、ヨーロッパの近代文学とはとても違ったところがあると思います。今回、インタビューに出てくる「復活」に関する、この作家の考えなどは、近代文学の文脈で読んでいくと、腰を抜かすようなところがあるかもしれません。 このあたりも味わっていただければ......。
(ここに掲載された写真は、今年2015年3月に ロシアの都市ペテルブルグを訪問した安岡治子さんが撮影したものです)
──本書は、ドストエフスキーの中編・短編の作品集です。長編と比較して、中編・短編の魅力はどこらへんにあるのでしょうか?
安岡 この作品集を読むとわかるように、長編も短編もドストエフスキーの関心は変わらないと思います。人間の苦悩や愚かしさを相変わらずじっとみつめています。しかし物語としての展開が違うのです。
たとえば「百姓のマレイ」。書き手はシベリアの流刑地にいます。その日は復活祭で、囚人たちは労役に出されることはないので、お祭り騒ぎ状態。みんな泥酔して、罵り合いや喧嘩が始まります。まさしく苦しく愚かしい世界が作家を取り囲む。読み手は、おっ、今回もドストエフスキーはこの世界を突き進んでいくのかと思います。シベリアの獄中体験を書いた『死の家の記録』のように。
しかし、作家はなぜか9歳の子供の頃に出会った百姓の一人のことを思い出すのです。それがマレイという名の男。この人物の豊かな感情、優しさを綴っていく。ロシアの民衆の素晴らしさが描写されるのです。そして書き手は、シベリアの囚人たちの愚かしさを肯定していく。いつもとは違う展開です。
「おかしな人間」もそうです。主人公はこの世がいやになって自殺しようとしている。これも読者は、また苦悩の末の死を描く小説かと考える。けれど、そうはならない。思いもかけないことが起こり、この男は最終的には自殺をしないことになる。そればかりか他人を救済しようとまでする。
つまり、ここに集めた作品は、いわゆる「ドストエフスキー的な世界」が展開しそうなんだけど、そうはならない、別な側面を見せていくものが多い。別な側面というのは、大雑把にいえば、重く辛く冷たいロシア民衆の世界に、束の間、輝く希望の光です。
彼の中編・短編すべてではありませんが、長編と比べると、こうした明るさが見える小説が多いですね。
──『白夜』について、とても基本的な質問を。白夜のペテルブルグでの、内気で空想家の青年と少女の出会いを描いた物語ですが、実は白夜という状態がわかりません(笑)。どんな感じなんですか?
安岡 白夜は、南極や北極に近い地域で、夏に起こる真夜中になっても太陽が落ちない現象のことですよね。私はペテルブルグに7月に行ったことがありますが、夜の11時くらいまでは陽がカンカンに照っている感じでした。そこで暮らしていた留学生は、真夜中の1〜2時間は暗くなるから本当の白夜ではないといっていましたが。
何にしても白夜の時期は、夜が明るいから人はよく眠れない。ですから昼間も寝不足状態。地に足がついていない感じの人も多いのでしょう。この小説はどこか幻想的なところがありますが、そういった非日常的な体験をしやすい日々なんですね。そんな時、夢のような出会いがある。夢想家の青年と少女が遭遇するわけです。
──ここで描かれるペテルブルグはとても素敵です。青年は歩き廻り、立ち並ぶ建物を見ながら色々な空想に耽る。実際、散策にはぴったりの都市ですか?
安岡 そうですね。ペテルブルグは、ピョトール大帝が18世紀初頭に沼地に建てた、ロシア的な街というよりは、ヨーロッパの都市の色々な魅力を集めた人工都市です。
「ピーチェルFM」(オクサーナ・ブィチコヴァ監督 2006年)という映画があります(日本未公開)。これはペテルブルグの小さなFM局に勤めている女の子の日常を描いた映画です。タイトルのピーチェルというのは、ペテルブルグの愛称。この映画の中で、彼女のボーイフレンド、建築家なんですけど、彼は、いつも建物を見ながら歩いている。
確かにペテルブルグは建築物を楽しむにはぴったりです。ヨーロッパの様々な様式の建物が集められているので、それを見ながら歩くのには最適の都市だと思います。
──ドストエフスキーの作品を読みながら、ここに旅してみたいと思える希有な体験(笑)が、この「白夜」ではできます。
次に「おかしな人間の夢」について伺います。本書の「解説」で、安岡さんは、この短編作品のことを、バフチンが「ドストエフスキーの主要なテーマのほとんど完璧な百科事典である」といっていると書いています。
安岡 とても短い小説だけれど、確かにここにはドストエフスキーの様々な作品のテーマ、モチーフが満載なんですね。ロシアの文芸学者ミハイル・バフチンは『ドストエフスキーの詩学』(望月哲男、鈴木淳一共訳 ちくま学芸文庫)という本で、そう書いて、以下にテーマを列挙しています。
まずは、「賢い馬鹿」「悲劇的道化」という形象。自分はすごい真理を知っていると思っているが、人からはおかしな奴だと思われている人物が、ドストエフスキーの小説にはたくさん出てきます。『罪と罰』のラスコーリニコフ、『悪霊』のスタヴローギンなどですね。そしてこの「おかしな人間の夢」の男も、世界の真理を知っていると自分では思っているんだけど、他人にはただ「おかしな人間」に見える男です。
次は、「絶対的な無関心」というテーマ。男は「この世の何もかもは、どうでもいい」と思っていますが、これもこの作家の小説には多く出てくる。たとえば『悪霊』のキリーロフなどです。
それから「自殺に先立つ生の最期の数時間」というテーマ。男は、ある不幸な少女に出会っているのですが、彼は「私が、たとえば二時間後に自殺するのだとしたら、あの女の子が私に何の関係があるのだろう」などと考えたりする。こういった場面もドストエフスキーの小説にはいくつかある。
その他、バフチンがあげているのは、「危機の夢」。地上とは違った可能性を見せてくれる夢ですね。そして、たった一時間もあれば、楽園は一挙にできあがるという「瞬間的な生の楽園化」という考え、さらに「苦しむ子供」というテーマも。
──確かに、この作品は「ドストエフスキーの主要なテーマのほとんど完璧な百科事典」ですね。
安岡 こんなに重たいテーマを抱えつつも主人公は、最終的には物語の始めに出会っている不幸な小さな女の子を救済しようとするポジティブな方向へ行く。その思いもかけない展開が、この短編の面白いところなんです。
──その「救済」もそうですが、本書を読むと、キリスト教の影響を色濃く感じます。ドストエフスキーにとって、この宗教はやはり大きいものなんだなと改めて思いました。
安岡 はい、色濃く出ています。ドストエフスキーを語るには、キリスト教のことを知らないといけないというと、鼻白むようなところが日本にはありますね。「文芸批評や文学研究をしているのに、なぜそのようなことをいうのか」と。しかしドストエフスキーを考えるには、やはりキリスト教とりわけロシア正教には触れざるをえないと思います。
──ロシア正教というのが、これまた日本人にとってはわかりにくい。
安岡 わかりにくいし、ロシア正教について語ることも、とても難しい。
父(安岡章太郎)、母、そして私は、井上洋治神父によってカトリックの洗礼を受けました。その井上神父の経験を、まず話させて下さい。井上神父は1950年代、フランスに留学しました。そこで神父はカトリックの神学を学ばれた。しかし、なかなかうまく学ぶことはできなかったといいます。いくら本を読み、話を聞いても心の中に入ってこなかったと聞きました。その時に、ロシア正教について書かれた本を読んでいると、大地に水がしみ込んでいくようにその言葉が自分の中に入っていく経験をしたといいます。その時、神父は、キリスト教は普遍性のあるものだから、今、西欧世界で花開いたものではなく、ロシア人ならロシアの、日本人なら日本の文化内開花をしてもいいのではないかと思ったそうです。
井上神父は、もちろんその後、カトリックの司祭になられた方ですが、このエピソードは西欧の理性中心のキリスト教とは違ったロシア正教の特性を、私たちに教えてくれるものだと思います。
──ロシア正教の特性とは、どういうものですか?
安岡 これも簡単に話ができるものではないですが、少しだけ触れる形でお話します。
まずロシア正教(元はギリシャ正教をはじめとする東方キリスト教ですが、)の特性のひとつに「否定神学」があります。神の本質を語れば「○○○ではない、○○○でもない」と否定を重ねることでしか表現できないないという、それは超絶的な存在であるという考えです。
では、そのような神に人間はいかにして近づけるのか。ひとつに人間の「神化」があります。これは頭で神を理解するのではなく、いわば神を体験することなんですね。キリストが受肉したことを、「神は人間が神となる(神化する)ために、人間となった」とする考えがあります。それを踏まえ、私たちも神化することができるとロシア正教は考えたのです。しかも人間が神化を遂げると同時に、周りの自然万物にも神化の変容の光が及ぶという考え方です。
これは、ロシア正教のもうひとつの特性「汎在神論(パンエンテイズム)」につながります。それは、神の存在は全宇宙を包括し、そこに浸透しているので、万物は神の内にあるとする思想です。それを踏まえ、正教では「自然(宇宙万物)と神の恩寵との間に明確な境界を区別せず、全被造物は、神との霊的交わりの中にある」とします。
「汎在神論」は、自然と神が同一視される「汎神論(パンテイズム)」では決してないのですが、たとえば『カラマーゾフの兄弟』に登場するゾシマ長老の「草の一本、小さな甲虫、蟻ん子、黄金色の蜜蜂一匹も、ありとあらゆるものが、神様の神秘を証している」という言葉を思い出してください。一木一草が神に祈りを奉げており、その美を通して人間が神の神秘を知るという、このゾシマの言葉は、人間中心主義、主知主義に慣れた者の目には、汎神論的に映るかもしれません。
汎神論も簡単にいうなら自然の中に神が宿っているという考えですが、仏教では「山川草木悉有仏性」とかいいますね。こういった「汎神論」は、神の絶対的な超越性を強調する西方キリスト教の正統教会の立場からは遠く隔たった概念です。ところがロシア正教の考えとは共振するようなところがあるのです。
井上神父が、ロシア正教について書かれた本を読んだ時、大地に水がしみ込んでいくようにその言葉が自分の中に入っていったというのは、この仏教的自然観との近しさと関係していると思います。
こういった自然観にドストエフスキーも共感し、また西欧の理性中心主義のキリスト教に違和感をもっていたのだと思います。それは、さきほどのゾシマ長老の言葉だけでなく、『おかしな人間の夢』に出てくる楽園の麗しき人々と自然全体との調和的関係にも見ることができるのではないでしょうか。
──ドストエフスキーの理性中心主義のキリスト教に対する反撥でいうと、この作家の小説には、愚者が多く出てきます。それがまたすごい存在なんですが、ロシア正教の世界だと「瘋癲行者(ふうてんぎょうじゃ)」という聖人として登場する。 「おかしな人間の夢」にも、その言葉が出てきます。「彼らは私を嘲笑するばかりで、とうとう私のことを瘋癲行者だとみなすようになる始末だった」という文章です。
安岡 瘋癲行者(ロシア語ではユロージヴィといいますが) とは、キリストの受難を自発的に追体験するため、痴愚者を装うロシアで特に愛される聖人ですね。西欧には、地位や富、家族を捨てて聖人になる人がいますが、瘋癲行者は、さらに人間の証である知性までも捨てる、そして狂いを装うというよりある意味で完全にクレイジーになってしまう人たちです。
モスクワの赤の広場に聖ワシリー大聖堂がありますが、あれは瘋癲行者ワシリーの墓の上に建設された聖堂です。瘋癲行者は、ボロを纏って放浪生活をし、奇行を重ねながらキリストの真理を明らかにする人たちなんですね。
ワシリーは、 16世紀、イワン雷帝の時代に生きていた人ですが、たくさんの人を殺してきたイワン雷帝を、血塗られた者としてずばりと批判したことで有名です。瘋癲行者は、誰もができない権力者に向って批判の言葉を投げかける人でもあるのです。
こうした愚者信仰は、ロシア正教の世界、さらにはロシアの民衆文化の特徴でもあります。おっしゃる通りドストエフスキーの小説にも多く登場しますし、他のロシアの作家の作品にも顔を出します。
私が訳した本で『酔どれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行』(国書刊行会)という本があります。ヴェネディクト・エロフェーエフという作家が書いた物語なのですが、主人公は最初から最後まで酒を呑み続け愚行を繰り返します。酒をあおり続けることで自己探求を極めようする人なんですね。彼はまさに瘋癲行者です。
モスクワ駅から列車に乗り込む酔どれの主人公が目指すのは、麗しき女性と可愛い幼子が待つペトゥシキ終着駅。その列車で奇妙きてれつな乗客たちと、妙ちきりんな酒を酌み交わし(笑)、文学・哲学・恋愛談義に花を咲かせる。自分が訳した本をこういうのもなんですが、お勧めの本です(笑)。
──面白そうです。その本、お借りします。
(『酔どれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行』を、帰りの電車で読み始めたら、ズブロフカが匂いたつような小説で、確かに強力で......思わず途中の山手線五反田駅で降車、居酒屋に入り、酔どれになって読み続けました......)
──さて、今回の作品集は、4つの中・短編に加えて、もうひとつ「一八六四年のメモ」というテクストが入っています。このテクストについてお話いただけますか。
安岡 1864年4月、ドストエフスキーが『地下室の手記』を執筆をしている時に、最初の結婚の相手であるマリヤを亡くします。その遺体を前にして綴ったというメモです。
マリヤとの結婚は非常に不幸なものでした。初めて出会った時、彼女は既に人妻だったし、二人の結婚式の前の晩にマリヤは他の男といたといいます。そして結婚後はドストエフスキーも彼女を裏切るようなことをしていた。こうした生活を経て彼女は亡くなり、その遺体の前で彼は次のように書きます。
「キリストの教えに従い、己のごとく他人を愛することは、不可能である。この地上では、皆が個我の法則に縛られているからだ。我が障害となるのである」
そして、なぜ人間は個我の法則に縛られ、我を完全に他者に与えることができないかと考えます。それは、地上の人間はいまだ発展途上の状態にあるからだとし、未来、究極の理想の特性とは「娶らず嫁がず(犯さず)、神のごとく生きる」ことであると考える。さらに、その達成を、この世の終末に訪れるとされる普遍的復活として、ドストエフスキーはメモに記します。
エゴイズムの克服と、その達成、そこに訪れる復活。
こうした考えは、ドストエフスキーの思想の根幹にあるものだと思います。それが妻の遺体を前にしてのメモということもあり、直接的に表現されている。短いものですが、重要なテクストということで、この作品集に入れました。
──復活ですが、ドストエフスキーの小説では重要なモチーフです。そして、この復活、作家が考えているのは、どうも比喩的な話ではないらしい、肉体的な具体的復活を考えているようなんですね。
安岡 ドストエフスキーは、ニコライ・ニコラエヴィチ・フョードロフという思想家の考えに強く共感したのですが、この復活の考え方も、フョードロフの思想と通じ合うものだと思われます。
フョードロフは、死の克服と祖先の復活を人類全体の気宇壮大な共同事業と考えていた思想家です。
彼は復活を決して比喩として考えなかった。人は神化し、将来、死の苦しみに満ちた自然の状態から脱するであろうと考え、そこでは人間は他者を傷つけ犠牲にせずとも己を生かしていける新たな身体をもって完全に復活するとしたのです。
この考えは、ソビエトのロケット開発にも大きな影響を与えたといわれています。というのは、ロケット工学の父、コンスタンチン・ツィオルコフスキーと関わりがあるからです。若きツィオルコフスキーは、ある図書館で勉強をしていたのですが、そこで司書をしていたフョードロフと知合い、その思想に影響を受けます。
そのひとつは復活に関する考えです。フョードロフは人間が神化し、復活が実際に行われれば死者たちが甦ってくる、そうすれば地球は人でいっぱいになると考えた。そうなったら、他の惑星への移住が必要となる、そこでツィオルコフスキーのロケット工学が関わってきます。ソヴィエトの宇宙開発の根幹には、この特別な思想があったという説です。また、フョードロフの方も科学の力を使って復活を行おうとも考えていました。
そして繰り返しますが、この復活についての考えは、ドストエフスキーの小説にも強い影響を与えています。
──『カラマーゾフの兄弟』の最後のところで、アリョーシャと子供たちが、復活について語りますが、あれは本当に肉体として甦ってということなんですね。
安岡 今回の作品集には、西欧近代の理性中心主義では理解しにくい世界も垣間見える、そんな作品も入っています。そこも感じ取っていただければと思います。 またフョードロフの思想に興味を持った方は、私が亀山郁夫先生と一緒に訳した『フョードロフ伝』(スヴェトラーナ・セミョーノヴァ 水声社)がありますので、読んでみて下さい。
──とても難しくて深い話を続けて聞いてしまいました。......実は、安岡さんはこういった質問に答えるのは嫌がっておられたのですが、なんとかお願いして、話していただいたのです。すみませんでした。
安岡 簡単に話せるものではありませんからね。今日は、ほんのさわりだけです。
──ということで、終わりは軽い話を。最近ロシアに行ったと聞きました。いかがだったですか?
安岡 今年の3月に。ペテルブルクにも行ってきました。前から宿泊してみたいと思っていた「ドストエフスキー・ホテル」に泊ることができたのです。彼が最後に住んでいた家が今、ドストエフスキー博物館になっているのですが、ホテルから歩いて5分くらいのところにあるので、この名がついたのかもしれません。
──ドストエフスキー・ホテルは、その著作が聖書の代わりにベッドサイドに置いてあったりするのですか?
安岡 それはなかった(笑) 別に何もなくて......そう、「バー・ラスコリニコフ」という名のバーがありました。なんで(『罪と罰』の酔っぱらい)マルメラードフじゃないかと思いましたけど(笑)。
この旅で写真を撮ってきましたので、どうぞ見て下さい。
──あっ、これは「白夜」の二人が出会う場面のような写真ですね! では、これから写真を楽しむということで、お話はこれぐらいにさせていただきます。
今日はどうもありがとうございました。
(聞き手・渡邉裕之)