10月31日(土)から新宿武蔵野館ほかで公開中の映画『裁かれるは善人のみ』。監督のアンドレイ・ズビャギンツェフ氏はデビュー作『父、帰る』(03)でヴェネチア国際映画祭金獅子賞と新人監督賞をW受賞し、世界にその名を知らしめたロシアの鬼才。そのズビャギンツェフ監督と親交があるロシア文学者沼野充義さんのトークイベントが、11月3日(火)に新宿武蔵野館で行われました。
ロシア映画としては半世紀ぶりとなる本年のゴールデングローブ賞外国語映画賞、そして昨年のカンヌ国際映画祭脚本賞受賞、またアカデミー賞にもノミネートされた本作は、主人公が教会と結託した権力と闘うという内容のため、ロシアでの公開時には上映禁止運動がおこり、大きな論議を呼びました。新宿武蔵野館でも公開直後から満席・立ち見の回も出るなど大ヒット中の話題作です。
沼野:ズビャギンツェフ監督を最初に知ったのは、『父、帰る』(03)でしたが、この作品はデビュー作とは思えない完成度で世界を驚かせました。今回公開された最新作の『裁かれるは善人のみ』は、デビュー作から10年以上経っていますが、より、深みのあるものになっていますよね。内容的には、暗くて先が見えないものですが、でも徹底した人間の描き方と、ロシア北部の荘厳な風景は圧倒的で、以前にも以前にも増して独特の美的世界の密度が濃くなったように思いました。
沼野:『裁かれるは善人のみ』は、社会的問題を正面から取り上げていますよね。舞台はロシアで、地方政権の腐敗を鋭い視点で描いています。ロシアの教会の人たちからしたら決して面白い内容のものではありませんよね。
しかし、よくよく見ると、単純に批判だけをしている訳ではなく、教会がある意味、地方権力者たちの精神的な支えになっていて、聖教を尊んでいる姿がしっかりと描かれています。そういう両面を描きながら、ラストの聖職者の説教シーンが空々しく聞こえるのは「こういう現実を、あなたならどう考えるか。」という監督からの問いが感じられます。監督は、芸術家肌。そういう彼が現代のロシアを描くと必然的に、こうした作品になるんだと思いましたね。
しかし、ロシアの歴代指導者の肖像を射撃するシーンなどは、公開禁止ギリギリの際どい表現ですよね。そうした制限があるからこそ、『裁かれるは善人のみ』は、より洗練された、映画の本質に迫ったものになったのではないかと思います。
沼野:『裁かれるは善人のみ』を、単に政権批判とみるのか、普遍的な権力の腐敗とみるのかという話ですが、それは、本作がアメリカで実際に起きたキルドーザー事件や、「ミヒャエル・コールハースの運命」という小説、そして聖書のヨブ記を基にしているところからも、後者の「普遍的な権力の腐敗」をテーマとしているのではないかと思います。単に政権批判の映画であったならば、恐らく市民運動家が権力に向かう話になっており、主人公も酒に溺れたり、家庭も崩壊していたりはしないでしょう(笑)。
権力の横暴があったとき、個人はとても弱い存在です。それなのに、主人公にこれでもか、と色んな理不尽な試練を与えている部分をみると、監督からの「なぜ、世の中はこんなにひどいことが起こり続けているのか」という問いが詰まっているように思うのです。