映画『リトルプリンス 星の王子さまと私』が大ヒット中です。古典新訳文庫編集部でも全員が見に行きましたが、涙なくしては見られない感動作で、原作を深く理解したうえで舞台をうまく現代に置き換えているオズボーン監督の素晴らしい手腕には拍手喝采せずにはおれません。まだ見ていないかたはぜひ劇場へ!
さて、この映画のタイトル『リトルプリンス』というのは、サン・テグジュペリの小説Le Petit Princeの英語訳なのですが、これまで日本では『星の王子さま』というタイトルが一般的でした(なので、映画でも「星の王子さまと私」という副題がつけられていますが)。しかし、光文社古典新訳文庫版では、本作は『ちいさな王子』というタイトルにしてあります。なぜ「星の王子さま」でなく「ちいさな王子」でなくてはならないのか? この点については、翻訳者の野崎歓さんが「訳者あとがき」に詳しくお書きになっています。今回この「訳者あとがき」をウェブ上に公開させて頂く許可を得ましたので、ここに全文掲載いたします!
原著Le Petit Princeの版権消失にともない、大変な新訳ラッシュが巻き起こったのはご存じのとおりである。十数冊の新訳が賑々しく世に出て、さすがに打ち止めか、という頃になってもう一冊、拙訳を加えることとなった。翻訳とはジャンケンのあとだしである、とうまいことを言った人がいる(鴻巣友季子『翻訳のココロ』ポプラ社)。本書などはまさに、あとだしジャンケンもいいところだろう。
有名作家やフランス文学研究の先輩たちによるそれら先行訳を、すみずみまで研究したのちに稿を起こすのであれば、あとだしの特権を活かしたやり方と誇れるかもしれない。しかし、古典新訳文庫の一冊として何か好きな本を、という申し出をいただいてこの作品の名を挙げたとき、こうした状況が待ち受けていようとは夢にも思わなかった。いざ翻訳に取り掛かろうとしたまさにそのとき、続々と新訳が書店に並び始め、最初のうちこそいささか途方にくれる思いで買い求めては、どんな訳になっているのかと目を血走らせて点検したが、たちまち嫌になってしまった。さすがにやる気が失せてしまう。
一冊の本を訳すということは、どうしたってその本と自分自身の関係を語ることだし、自分なりの解釈を語ることだ。もちろん、できるだけ精度を上げるために、多少なりともほかの訳を参照する必要はあるだろう。しかし翻訳自体は、右顧左眄(うこさべん)せずにとにかく自分なりに、自分を信じてまっすぐ進めていくほかない。そう覚悟を決めて、一気に訳してしまった次第である。
拙訳が、必ずしも「屋上屋を架す」だけに終わっていないと思いたいのは、まず、タイトルの問題ゆえにである。内藤濯(あろう)による『星の王子さま』の素晴らしさに、いまさら異議を唱える余地などないだろう。多くの読者に愛され続けた、まさに歴史的名訳というほかはない。しかし訳文の詳細にわたって検討するならば当然、現時点における異論は多々出るはずだ。そのことをいわば象徴しているのがタイトルである。Le Petit Princeはまったく別の名前を求めているのではないかと、ぼくにはずっと思えていたのである。
『星の王子さま』という天才的なネーミングあればこそ、この作品はこれだけ親しまれてきたのだ、との説にぼくは与(くみ)しない。Le Petit Princeは聖書、資本論の次に多く翻訳された作品だといわれている。たとえば英語訳はThe Little Prince、中国語訳は『小王子』である。多くの国で、そうした直訳による命名がなされているだろうことは想像にかたくない。そしてそれはLe Petit Princeが世界中のあらゆる国々で愛されることのさまたげには、まったくならなかったのである。
ぼく自身は、『星の王子さま』という題名は甘ったるくてちょっと照れるなあとずっと感じてきたひねくれ者である。だから内藤訳に親しんだことはない。「小さい(プチ)」という形容詞がタイトルから消えているのはまずい、とも考えてきた。なぜなら、「望遠鏡でも見えないくらいの」小さな星からやってきた、小さな王子の、小さな物語、それが本書だからだ。「大きな(グランド)人」つまり大人の考え方や発想の彼方で、子どもの心と再会することが本書のテーマである。「大きい」「小さい」の区別が物語にとって重要な事柄となっているのは、バオバブの一件がよく示しているとおりだろう。
もちろん、petitは単に物理的に「小さい」というだけでなく、幼い、可愛らしい、いとしい、といったニュアンスを帯びてもいる。漢字を避けて、ひらがなで表記することでその感覚を多少なりとも漂わせられないだろうか。そしてまた、「ちいさい」よりは「ちいさな」とするほうが、より感情のこもったいい方になるのではないか。
と考えた結果生まれたのが『ちいさな王子』という次第である。
訳文そのものに関しても、無い知恵をしぼったところはいろいろある。指針とした二点だけ述べさせていただく。その一。「むかしむかしあるところに、ちいさな王子さまがおりました」といった、おとぎ話調、童話調は採用しない。「できるならぼくは、この話を、おとぎ話みたいにはじめてみたかった」と、語り手自身が述べているではないか。つまり、実際には彼はそういう語り方を採らなかったのである。この作品は、結局は従来のおとぎ話調と一線を画したところに成り立っている。子どもに対し(あるいは大人の内なる子どもに対して)、より真率に、直截(ちょくせつ)に語りかける、きっぱりとして飾り気のない調子を意識すべきだろう。実際、とりわけ後半の悲劇的展開において作者は、簡潔にして澄明、そっけないくらい剛毅な文体をつらぬいている。
そして第二に、にもかかわらず、全体をとおして温かさが失われてはならない。サン=テグジュペリという、魅力あふれる男だったとだれもが称える人物のぬくもりが、原作のすみずみにまで通(かよ)っていると感じられるからだ。もちろんぼく自身に、生身の作者を知る機会などありえなかった。しかしここに、映画監督ジャン・ルノワール――苦境にあったサン=テグジュペリの心を友愛の火であたためた人物の一人――にあてて語るサン=テグジュペリの肉声を記録したCDがある。体のどこもかしこも曲線でできていたと評される人ならではの、太くやわらかく、楽しげであったかい声に聞き惚れつつ、こんな声で朗読すべき本であることを忘れないようにして訳を進めた。
とはいえもちろん、訳者の弁明など読者には余計な寝言だろう。これだけのブームにもかかわらず、あるいはブームだからこそ、この作品に背を向けている読者が、まだ意外にいるかもしれない。本書によって初めて『ちいさな王子』と出会う人が、少しでも多く現われることを願っている。
(光文社古典新訳文庫『ちいさな王子』収録「訳者あとがき」)