四日間という時間とその中で多くの痛みや苦労を伴って、老人が港に持って帰ってきたのはカジキの骨だけだった。「だけだった」という言い方は失礼かもしれないが結果的に老人はカジキの骨しか手にいれてないのだ。しかし、どうしても僕は老人がカジキや鮫といった海との戦いに負けたとは思えない。それはどこか老人が満足しているように見えたからだ。港に戻ってから、老人は壮絶な戦いを語ってはいないし、巨大カジキを誰かに自慢したりも、悔しがったりもしない。そして、ほとんど何も語ることもなく、ライオンの夢を見ながら眠る。そこには落胆や悲しみという雰囲気はなく、どこか満足気なのだ。しかし、あれほど命をかけたカジキについてなぜ誰にも語らず、それでいて満足気なのだろうか。
まず、老人にとってはカジキの肉よりも、カジキを捕るという行為のほうが大切なのだと感じた。つまり、カジキを手に入れて、それを売ってお金や食べ物にするのが目的ではなく、老人が欲しかったのは「カジキを釣り上げた」という事実だったのではないか。だから、カジキの肉が失われ、骨だけになって帰ってきても老人はそれほど悲しまないでいることができたのだ。最初、漁に出た目的はお金や食料であったのは間違いないだろう。八十四日の不漁によって、老人はとても貧しい生活をしていた。しかし、カジキとの戦いの途中から、老人の目的はカジキを捕るという行為に変わっていく。「たいしたやつだ。美しい。騒がない。品がある。なあ、兄弟、おまえみたいなのは初めてだ」。老人は、カジキを釣り上げる前にこの言葉をかける。長い戦いの中で老人はカジキを認め、親しみの感情まで持っていた。そこまで立派なカジキを捕れたことは老人の誇りであるのだ。「これだけ堂々とした動きを見せる立派なやつを食うのにふさわしい人間はいない」とも言っている。敬意や、好意を抱いているカジキの肉を食べることを老人は否定さえしている。それでも彼は釣り上げようとしている。それはカジキを釣るという行為が大事だったからに違いない。カジキの肉が失われたことは確かに悲しいだろう。しかし、カジキを釣り上げるということを達成したのだから彼は満足だったのではないか。
そして老人はカジキを釣り上げたという事実を少年や漁師を始めとした街の人に知ってもらうことができたから満足気だったのだろう。彼らは残骸を見ただけでその凄さと、老人の成し遂げたことを理解した。言葉による説明は不要であり、だからこそ老人は何も説明はしなかったのだ。カジキの凄さ、戦いの壮絶さ、そしてそのカジキを一人で老人が捕ったという事実、これらは説明しないでも伝わると確信していたのだろう。そしてこれらは理解できない人には理解してもらわなくても良かったのだ。港にやってきた観光客が老人のカジキを鮫だと勘違いする場面がある。骨だけでは普通の人は理解してくれない。しかし、それでも気にせずに老人は眠り続ける。自分の好きな少年や街の人々が知ってくれていればそれだけで良いのだ。
『老人と海』という作品は、読んでいる側としてはどことなく悔しい話ではあった。せっかく捕ったカジキが最後には骨だけになってしまい、老人も壮絶な戦いを他の人には伝えずに最後には観光客に勘違いされて終わるのだ。しかし、老人の気持ちや彼の生活を考えると、なぜそれでも満足気なのかがわかった気がした。そして、この老人の生き方は素敵だと思った。僕は、結果や周りの目ばかり気にして過ごしていくことが多い。そしてそればかりに気を取られて生きている人は多いように感じる。そのために本当に大切なものがわからなくなったり、疎かになることがよくある。「自分にとっての大切なことを、自分にとって大切な人だけに知ってもらう」という老人は周りの目を気にせずに、自分の生き方を貫き通している。だからこそ彼は強いのだろう。僕も彼のような生き方をしたいと思った。(了)