古典新訳文庫創刊10周年を飾る『ゴリオ爺さん』は、1819年、パリ下町にある下宿屋ヴォケール館を舞台にしたバルザックの代表作です。この新訳を手がけたのは中村佳子さんで、コンスタン著『アドルフ』に次いで古典新訳文庫は2冊目になります。
中村さんの出版翻訳デビューは2000年、映画の脚本『サン・ピエールの生命』で、その後もミシェル・ウエルベックの『プラットフォーム』『ある島の可能性』などを翻訳。『プラットフォーム』の冒頭には、偶然にもバルザック『浮かれ女盛衰記』の一節が引かれています。
中村さんにとって『ゴリオ爺さん』はどのような作品なのか、訳出の苦労や工夫に始まり、登場人物への思い入れ、フランス語との出会いなどをお聞きしました。
──中村さんは古典新訳文庫の「訳者あとがき」に、既訳では読みづらい7頁から60頁までの"鬼門"を読みやすく訳してほしいと編集部から「難しい注文」を受けたと書いていらっしゃいます。でも中村さんにとっては、その冒頭部分こそがバルザックを楽しむための肝だったとも。まずは、その冒頭の難解な翻訳についてお聞かせください。
中村 自分が既訳や原書で『ゴリオ爺さん』の冒頭部分を読んだ時は、それほど抵抗感もなく、難しいと感じなかったのですが、今回、自分で訳してみて、今までの翻訳者がご苦労されたことがよくわかりました。
バルザックの文章は、とにかく挿入句が多い。話がそれて、それた先で、また情報が加わっていく。ちょうどネット上の文章みたいなんです。ある言葉をクリックすると別画面で関連情報が出てくる、というような感じです。
ちょっと詰め込み過ぎ、ちょっと話し過ぎなんじゃないか、翻訳する身にもなってくれという文章です。ただ、それができてしまうのがフランス語で、文法的に可能なんです。誤解を招くかもしれませんが、バルザックは文章がそれほど上手ではないというか、もっとスタイリッシュにできそうな文章です。おそらく時間がなかったこともあるのでしょうね、もう振り返らずに勢いで書いていったような印象を受けます。『ゴリオ爺さん』も4カ月で書き上げていますしね。
──わかりやすい日本語にするために、どのような工夫をなさったのですか。
中村 魔法みたいなことはなくて(笑)、地道にやるしかないですね。
日本語は挿入句が苦手というか、パーレン( )とか、棒(ダーシ)――くらいしか処理の仕方がないので、べたっとしがちなんですが、その気になれば日本語でも立体感は出せます。
日本語の強みは語順の融通が利くところです。それから助詞という豊かな表現材料がある。例えば、いま私が「豊かな表現材料がある」と言わずに「もある」といったら印象が変わりませんか? こういう微調整を地道に、それでいて近視眼にならずに全体を見ながら続けていくんです。
──中村さんのその工夫のおかげで、すーっと読み進めることができました。でも、次にひっかかるのが人名です。レストー伯爵夫人、アナスタジー、ナジーと、ひとりの人物なのに、いくつもの呼び名が出てきて混乱します。バルザックが意地悪なのでしょうか?
中村 「呼び名問題」は、もう翻訳の仕事のたびに、編集部とかならず一度は話し合う(もめる)問題なんですね(笑)。フランス文学につきものといいますか。バルザックがとりわけ意地悪なわけではありません(笑)。ひとつひとつ検討していくと、ここで呼び名を変える必要ある?という場合は多い。フランス人には文章を書くときに、連続して同じ名前を並べるのは野暮だという感覚があります。
私がフランス語を習ったときも、一人の人物に対して、どれだけの呼び方ができるかという授業がありました。例えば、小泉純一郎を名前以外でどう表現するか。総理大臣、首相、離婚男(バツイチ)、髪が白い男、変人と呼ばれる日本人などなど。ユニークな表現を挙げると、教室は「すごーい!」という感じになるんです。
日本語でも、語尾が、です、です、です、だ、だ、だ、と続くの抵抗ありませんか?それと似ているかもしれません。
『ゴリオ爺さん』の人名は、編集部とも相談してだいぶ整理したのですが、登場人物を印刷した栞を入れることにしたので、最終的にはいくつかの呼び方を残しました。
──ほかに苦労した点はありますか?
中村 最後まで、お金には苦労しました(笑)。
──翻訳料の印税率ですか?
中村 いいえ、そうではなくて(笑)。私がもともとお金の話に疎いんですね。でもバルザックはお金の話大好きなんです。浪費の話とか借金話とか、もう放っておいたらいつまでだってしていたいタイプです。だから訳者として、なんとかバルザックの金勘定のセンスに近づいて、読者にその面白味を伝えないといけません。手形についての本を読んでみたりもしたんですが、専門用語ばっかりなんです。借金の仕組みを理解するのに苦労しましたね。それを地の文に落としていくのもまた一苦労で。お金の単位や小切手帳の使い方など、フランス人には当たり前のことでも、わかりづらいところがあって、注で対応させてもらいました。あまりうるさくならないよう、物語のリズムを崩さないように注意しながら。
──『ゴリオ爺さん』は、田舎からパリに来て、社交界に潜り込みたい学生ラスティニャックと、きらびやかな金持ちたち(でも借金だらけ)の話ですよね。オビにも"世の中カネがすべてなのさ!"とあります。訳す上で、どのようなことを心がけたか、作品の魅力はどのへんにあると思われますか。
中村 バルザックの中でも、この『ゴリオ爺さん』はすごく好きな作品です。ただ、私はお金ではなくて(笑)、人間のほうが面白いんですよね。
訳すにあたっては、ゴリオがただただかわいそうなおじいさんにならないように、哀れな感じにならないようにしました。
このおじいさんは、他の道もいっぱいあるのに、人の意見にまったく耳を貸さない、ものすごい我の強い人です。娘のために尽くし、場末の下宿屋で貧しい生活をしていると聞くと不幸みたいですが、自分の人生をまっとうしている。そこが衝撃的に面白いと思います。ゴリオ爺さんは、別に不幸ではないんです。
今回、一語一語翻訳して読みながら、最後のほうのゴリオ爺さんのセリフにも圧倒されました。うわごとなのに、このテンション。ここまで書くか、とくどいほどに話しているんです。むかし読んだ時には気づきませんでしたが、本当に圧倒されました。
ただ、何度も読み直してみて、娘としては身につまされるというか、長女のアナスタジーも次女のデルフィーヌも、そんなに悪い娘かしら?と思ったんです。
実際にゴリオという父親がいたとしたらどうでしょう? 娘のあらゆるわがままを許し、莫大なお金を与えて、甘やかすだけ甘やかして、娘をダメにしたのはこの父親だとならないでしょうか? 娘たちに金銭感覚がないのも、そういうふうにゴリオが育てたわけですし。
父親がうっとうしくなる娘というのは、現代でもよくありますよね。結婚して自分の家族が大事になり、実家の父親はめんどうくさくて顧みなくなる、それでいて困った時だけは頼るのですから、褒められたことではない、悪いですけど(笑)、でも訳していて、ゴリオの娘たちほども私は父親のところに行ってないなあ、電話しなきゃ、なんて思ったりしました。でも、そんなもんですよ、人間って。
──最近、日本では「毒母」が話題ですが、ゴリオ爺さんも重たい父親ですよね。
中村 ちょっとストーカー的ですよね。娘への愛がセクシュアルな感じになっていて、足を舐めんばかりとか、娘の膝に乗る子犬になりたいとか、これほど変態な父親はいないですよ。
バルザックが『ゴリオ爺さん』を書くにあたって、シェイクスピアの『リア王』をイメージしたのは間違いありません。リア王の三人娘のうち、上の二人ゴネリルとリーガンをアナスタジーとデルフィーヌに、末娘コーディリアを下宿屋にいるヴィクトリーヌ嬢に当てはめています。実はバルザックは舞台というものに、かなり思い入れがあって、戯曲もいくつも書いたけれど、成功しなかった。なぜでしょうね。『ゴリオ爺さん』なんて舞台にすると絶対面白いと思うんですけどね。キャラクターはめちゃくちゃ濃いし、セリフも本当に面白い。
──担当編集者O 中村さんの新訳は、その会話が生き生きしていて面白い、登場人物一人一人のキャラクターが生きていると感じます。もう一人の主人公、大学生のウジェーヌ・ド・ラスティニャックは、訳者から見ていかがでしたか?
中村 ラスティニャックには、もしかすると、あまり思い入れはなかったかもしれません(笑)。嫌いではないのですが......。むしろ、彼の友人である医学生ビアンションが好きなんです。というか、実は、死ぬほど好きなんです。人間に温かみがあって、それでいて、若者らしくはじけてもいる。これほど素敵なビアンションは、他の作品ではお目にかかれません。
──「ゴリオ爺さん」は孤立した小説ではなく、90近い作品が織りなす〈人間喜劇〉の一つ、同じ人が別作品でも活躍する「人物再登場」でも有名で、宮下志朗さんの解説によると、ビアンションは29作品に出ていて、登場回数では第2位だそうです。
中村 他の人はお金のことばかり考えて行動しているのに、ビアンション一人だけが常識的というか、まっとうな人間性が前に出ています。特にビアンションとラスティニャックのやり取りがいいんですね。それでついつい思い入れが強く出ちゃう、私の訳は他と比べてビアンションがやけにかっこよくなっているかもしれません(笑)。
ラスティニャックがこれほど素敵なのも、『ゴリオ爺さん』だけですね。ここで学んだことを実践して、彼はその後、どんどん出世していきますが、他の作品では、もっと冷たかったり、卑怯だったり。デルフィーヌともずっとつきあっていくんですが、最後はポイッと捨てるような男になっていきます。
考えてみると、ゴリオと、同じく下宿屋にいる謎の男ヴォートランによる、ラスティニャックへの父親教育なんですよね。
とにかく『ゴリオ爺さん』は、中心人物の交差点のような作品なので、最初に読んでおくと、あとあとバルザックを読み進めるのが楽しくなると思います。
──『ゴリオ爺さん』の前に、中村さんにはコンスタンの『アドルフ』を訳していただきましたが、当時のフランスの恋愛というか社交界というのは、今の日本の私たちからは想像しにくい世界ですよね。
中村 これって恋愛なのかな? むしろ、『ゴリオ爺さん』も『アドルフ』もパワーゲームですよね。パワーゲームって、日本人が最も苦手というか好きじゃないものだと思うんです。恋愛にパワーゲームなんか求めてない、もっと安らぎとかを求めている。でも、もしかすると、江戸時代の大奥とかは、フランスの社交界みたいな感じだったのかもしれません。
──担当編集者O 「ゴリオ爺さん」には、まともな夫婦って一組も出てこないですよね(笑)。実質的に一夫一婦ではないし、夫が妻に、二人の子どものうち、どっちが俺の子か、と聞く場面もありました。
中村 恋愛のスタジアムにデビューするには、結婚してないと切符が手に入らない。女性は特に、結婚して「誰々夫人」にならないと、自分の立場がありません。恋愛スタジアムは、この人を支援して、あの人を陥れようとか。そこに恋愛感情も絡んでくるようなゲームですね。
ダブル不倫なんて普通ですし、みんなが知っている公然の事実なんだけれど、完全にアウトになるラインがあって、証拠を出してはいけない。その時は失脚します。しっぽを出したら踏まれてしまうわけです。貞操感覚など、ほとんどないですよね。
──参考になった面白い資料があったら教えてください。
中村 バルザックが恋人ハンスカ夫人に宛てた手紙集は面白いかもしれませんね。LETTRES A MADAME HANSKA 。写真のこの巻ではちょうどバルザックが『ゴリオ爺さん』を執筆していた頃、書いた手紙が読めるので、資料として貴重です。
バルザックという人はハンスカ夫人という異国の人妻から来たファンレターがあんまりいい感じだったので、もう会う前から惚れちゃうんです。それで手紙での遠距離恋愛になります。もう涙が出そうなくらい健気な手紙を書きまくります。その健気さ一途さ暑苦しさは、やっぱりゴリオ爺さんっぽいです。
『ゴリオ爺さん』でも『アドルフ』でも、恋愛関係にあった二人が別れる時に、送った手紙を返して欲しいという場面が出てきますよね。バルザックくらいになると、いずれ公開されることを意識していたかもしれませんが。ハンスカ夫人は――これは私の所感ですけど――自意識過剰な、今でいうとちょっと「イタイ感じ」の人かもしれません。この本は、中の写真も豊富で面白い資料です。
『ゴリオ爺さん』は映画にはなっていないと思いますが、テレビドラマがあります。参考になるんじゃない?と友だちにおしえられて、すぐにネットで見てみたんですが、これがすごくつまらない(笑)。翻案されていて、私が面白いと思う箇所が、ことごとく変えられている。なんといってもゴリオ爺さんが、はなから賢そうなんですよ。ぜんぜん騙されそうにないんです! 私のキャラクター設定と、かなり違いました。
いまは日本語版のDVDもでているみたいです。あのシャルル・アズナヴールがゴリオを演じています。
ただ小道具とかを見るには、すごく役に立ちました。ヴォケール夫人の下宿屋の中の家具の描写を訳すときなんかに。たとえば小説には抽斗に番号がついていて個々人が自分のナプキンを仕舞っておく棚が出てくるんですが、そのドラマで現物を見てなるほどこうなっているのか、と。
『ヴィドック回想録』(フランソワ・ウージェーヌ・ヴィドック著、三宅一郎訳、作品社、1988年)は、ヴォートランと司法警察署長ゴンドゥローのモデルになった実在の人物、ヴィドックの回想録です。何回も脱獄しているのですごい犯罪人のように言われますが、これ読んでみるとそれほど極悪なことをしているわけでもないんですね。もっとつまんない小悪党です、面白いですね。
──中村さんが最初に「ゴリオ爺さん」と出会ったのは、いつ頃ですか?
中村 26歳くらいの時、ジャック・リヴェット監督の「彼女たちの舞台」とジャック・ドゥミ監督の「ローラ」の2本立てを、今はなき吉祥寺のバウスシアターで見ました。二人とも大好きな監督だから見に行ったんですが、考えてみればバルザック特集とも呼べる2本立てだったんですね。原作がバルザックというわけではないのですが、すごく影響されている。それぞれの作品のプログラムを買って読んだら、どちらとも中条省平さんがバルザックについて書かれていました。例えばこんなふうに。
「......リヴェットにもっとも近い作家はバルザックである。バルザックもまた、近代リアリズム小説の確立者でありながら、極端に肥大したディーテイルの描写に執着するあまり、その小説世界はときとして、ほとんど幻想の領域に入りこんでしまうからである。」 (中条省平「楽しいリヴェットのために」映画「彼女たちの舞台」プログラムより、発行、1991年)
これは読まなきゃ! と読み出したのが『ゴリオ爺さん』、新潮文庫、平岡篤頼さん訳でした。次に読んだのは、『谷間の百合』だったかな。
ちょうどフランス語を習い始めたばかりの頃で、ここからバルザックに、はまっていきました。
──大学でフランス語を学んだわけではないのですか?
中村 大学は哲学科。第二外国語でもフランス語はやってないんです(笑)。専攻は中国哲学で、漢文をやっていたんですよ。
大学を出てから、地元広島の小さな広告代理店でコピーライターをやっていました。コピーだけでなく、会社で企業の雑誌を作っていたので、こういうふうに人にインタビューをたくさんして、記事を書いていたんですよ。それが日本語を書く訓練になったかもしれません。
その会社を辞めて結婚で東京に来て、フランス語を始めました。東京日仏学院(現在は「アンスティチュ・フランセ東京」)でabcからです。アテネ・フランセにも通いました。なんでフランス語かは、ほんとにいろんな要素あって......もともと語学は好きでしたが。ただ、やっぱりそのうちに行き詰まるんですね、ひととおりの基礎を終えてしまうと、ぱたりと伸びなくなるし(笑)、なに勉強していいか分からなくなる。で、そんなときに知人に薦められたのが、日仏学院の堀茂樹さんの文芸翻訳のクラスだったんです。アゴタ・クリストフ『悪童日記』(早川書房)を翻訳した、あの堀さんのクラスかあ、ちょっと覗いてみようかな、と最初はほんとに物見の気分だったと思います。そこで、まったく思いがけず、どどどっと、はまってしまったんですね、翻訳に。
──担当編集者O 「ツール・ド・フランス」がお好きで、フランスによく旅行されるんですよね。『ゴリオ爺さん』の校了前にも最終確認にフランスに行かれましたが、わかったこととか?
中村 ごめんなさい。今回はパリには行ってない(笑)。実はサイクリング関係です。
もともとは教会美術が好きで、最初はそれを見に旅行していました。ある時、ツール・ド・フランスのテレビ中継を見ていたら、ロマネスクの田舎の教会が映っていたんです。ツール・ド・フランスって、地方の町おこしみたいな側面もあるので、空撮やアップで教会を映したり関連情報も流したりします。それで珍しい教会目当てに中継番組を見るようになって、あっという間にレースそのものにもはまってしまいました。見るだけじゃなくて、乗るようにもなって(笑)。
教会で聖歌を歌っているのを聞いて、いいね、ああいうのもやってみたいね、とコーラスを始めたり、ボランティアで外国人に日本語を教えたり、自分的には全部つながっていて、その中に翻訳もあるんですね。自分でも不思議です(笑)。
──最後に、バルザックの他の作品で好きなもの、オススメを教えてください。
中村 『十三人組物語』でしょうか。犯罪ものというか、活劇というか、十三人組という秘密結社にまつわるシリーズで『フェラギュス』『ランジェ公爵夫人』『金色の目の娘』の3作品があるのですが、変人ばかりが出てきます。
『ゴリオ爺さん』の登場人物もたくさん出てきます。『金色の目の娘』は『ゴリオ爺さん』でデルフィーヌをぽいと捨てたド・マルセーが主役ですし、『ランジェ公爵夫人』というのは『ゴリオ爺さん』にも登場するランジェ公爵夫人とその恋人モントリヴォーとの恋の顛末で、奇しくも夫人は『ゴリオ爺さん』の中で自身が予言したとおり、非常に可哀想な目に遭います。これはジャック・リヴェットが同名で映画化しています。
実はリヴェットには『十三人組物語』の世界を下敷きにした「アウト・ワン」という映画があるのですがこれが日本でまともに公開されてないんですね。なぜかというと12時間40分あるからなんです! 彼が今年1月に亡くなって、その追悼映画祭の中で、字幕をつけて上映しようというクラウド・ファンディングが立ち上がりました。
クラウド・ファンディングは今年8月に目標額を上回るお金が集まって終了したので、来年あたりには観られるのではないでしょうか。これはものすごく楽しみです。これを機に、みんながバルザック大好きにならないかなあ、と期待しています。
リヴェットの代表作の一本でありながら、これまで世界的にもあまり上映されてこなかった『アウト・ワン』に日本語字幕を付けて上映するプロジェクトを立ち上げました。
(聞き手・大橋由香子&担当編集者O)